宋常星『太上道徳経講義』(54ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(54ー7)
私は天下はそうしたものであることを知っている。つまりはそうなるのである。
ここで述べられているのは、これまでの総括である。ここまでは身を修める徳について述べられているのであり、その徳は天下に及ぶとする。「私」つまり老子は、どうしてこうした「一」なる徳の天下に及ぶことを知っているのであろうか。天下には、いろいろな場面で「善」が実践されている。「一」なる徳が成り立てば、それは天下において、いろいろな場面で徳の理が実践されることになる。徳がどのように実践されているとしても、全ては等しく徳なのであるが、天下にあって「徳」そのものを見ることは出来ない。天下における「一」つの個人、天下における「一」つの家、天下に「一」つの国、天下における「一」つの天下、どのようなところであっても、徳に別な徳があるわけではない。皆が等しく行っている「善」は、どこにあっても「善」であり、その実践が「善」でなくなることはない。それは至「一」の理(注 大いなる道の理ということ)であり、その他に理があるわけではない。そうしたことを「私は天下はそうしたものであることを知っている。つまりはそうなのである」として述べている。聖なる王が天下を治めるとは、あらゆる所、あらゆる時に「一」なる身の徳を広めることである。それは個々の家に及んで、個々の国にも及んで、天下に行き渡る。天の道を仰ぎ見るに、風雲、雷雨であっても、遍く徳の感応において生じている。伏して地の理を見るに、山川、河海においても、その徳が働いていないところはない。こうした不可思議な働きは「神明」ということができよう。古今を通して「善」によらないで行われていることはないのであり「善」を抱いて離すことがない。これを無窮の妙(注 不変の教えの意)という。
〈奥義伝開〉老子はこの世の中の道理を知っているから、ここで述べたような社会の関係は熟知していると最後に結んでいる。全ては合理的であるというわけである。何事も道理をよく考えてみなければならない。釈迦は肉体的な苦痛に耐えることは、物事を正しく見て正しい認識を得ることにつながらないことを発見して苦行を否定したが、後の人はどうあっても苦行をして「充実」を得たいようである。しかし、それは既に釈迦の説いた道からは大きく乖離している。このように理論が明らかに示されているにも関わらず、人はどうしても「自分の好きな理解」に傾いて合理性を通すことができないもののようである。老子は一貫してそうしたあり方を批判している。