宋常星『太上道徳経講義』(56ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(56ー2)
知っている者はあえて、余計無いことを語ろうとはしない。
黙っていても道と自分とは一体である。これを「知って」いるのである。「語ろうとはしない」とは、心と道とが合一しているから、あえてそうしないのである。つまり無為に知り、無為に行うというのである。そうであるからあえて言語をして、それが語られることはない。こうしてあえて語らないことの方がより(道の表現においては)巧みということができよう。道を心に得たならば、心と道とは合一していることが分かろう。これは真を知るということであり、それをあえていろいろと言語化することはないわけで、こうしたことを「無為の教化(無為の化)」という。これを天下に実践したなら、それは全て「不言の教え」ということになる。そうであるから「知っている者はあえて、余計無いことを語ろうとはしない」と述べられている。
〈奥義伝開〉ここで老子は一見して本質とは違うように見える事例を二つあげる。次いでそのまま本質が認められる事例を二つあげている。それは本質というものつまり「道」はそれが分かりやすい形で見えている場合とそうでない場合のあることに注意を促している。そうであるから常に一応は反対の見方のあることを許容しておく必要があるわけである。意見が一方だけになった時にはそれは真実ではない可能性が高いと考えなければならない。他の見方を許容しないのは批判に脆弱であるからである。社会的な熱狂が過ぎ去った時、物事の本質が容易に顕になることがあるが、熱狂の渦中にある時はつまりは意見が一方に偏っている時はなかなか本当のことが見えて来ない。そうした時には真実が覆い隠されやすいわけである。