道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(9)
道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(9)
「合気」は感覚的なものである。そうであるから植芝盛平は「宇宙と一体化する」とか「引力の鍛錬である」というような抽象的な表現を取るしかなかった。それを「抽象的」であると批判するのは「合気」が全く分かっていないからである。一方で武田惣角は「合気」を手首の操作によって相手の重心を奪う関節技としてとらえていたようである。そして、その技術を教えることが合気を伝授することであると見なしてたようなのである。しかし正確に合気を行うためには関節技を掛けるにしても、やはり感覚的なものを排除することはできない。皮膚感覚が鋭敏でなければ細かな操作の調節ができないからである。大東流で「合気」が秘伝として重視されるように成れば成る程、そこに「感覚」の介入する部分が増えてくるようになる。そうなると次第に「触れないで倒す」や「触れないで固める」という夢想的な展開(それは感覚的な展開でもあるが)を招来することにもなるのである。こうした弊害は合気の持つ必然ともいえる。