宋常星『太上道徳経講義』(55ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(55ー5)

「和」を知ることを「常」と言う。「常」を知ることを「明」と言う。

心と「神(注 意識のエネルギー)」が一体となっているのが「和」である。「和」とは太和の気のことでもある。それは自然の中では陰陽の正気となる。人では「谷神の元気(注 「谷神」は第六章で出ている。道と一体となった状態をいう)」である。自己の中での「造化」は気に依る。つまり性(注 本来的な意識の働き)や命(注 本来的な身体の働き)の元はここにあるのであり、それは気に依って働いている。また、その気は(欲望に汚染されていない)純然たる気であり、至柔、至順(注 円滑に身体の中を循環している)で「和」の状態にあると言うことができる。「常」となるのは無欲、無為であるからで、変化することがなく永遠に存在している。性と命が乱れていないことを「常」と言う。「明」とは「性」がとらわれのない状態(虚霊)であることを言う。日々内省をするのが「明」である。修行をする人は、よく邪な思いにとらわれないで居ることができているであろうか。誤った考えにとらわれることがなければ「一」なる元気(注 道と一体となった気)を守ることができる。柔和の正気を養うことができる。こうして修行をしていれば、天地が永遠である理由を悟ることもできるであろう。ある時に悟りを得て不壊不滅の門に入ることも可能となろう。天地と一体となっていれば、例え社会が変化をしても、自己の性命は何ら傷つけられることはない。これが「『和』を知ることを『常』と言う」である。古くは「我が身は何かと問うならば、精と気が元神と一体となっていることである」である。私(宋常星)はこれを「真常の理を明らかにすること」と言いたい。一粒の「玄珠」を糧として、これを幻視することで「和」と「常」の妙を知ることができる。すべては一粒の「玄珠」の中にあるのである。この「玄珠」は真常の道を悟ることができれば得られることであろう。それは自己の中の「性」は自然なるものであるから、秋の月のように輝いている。我が心は、自然であるから冬の沢のように静かである。こうして「性」が安定すれば、欲にとらわれることがない。そうなれば真人となることができる。そうなれば心は乱れることなく「性」には何のとらわれもない。瞑想の境地は静であり、そこでは乾坤(注 天地と一体となった陰陽の感覚)が備わっている。「一」を体得することで「一」を明らかにすることができる。これが「『常』を知ることを『明』と言う」である。


〈奥義伝開〉道とは無為自然であり、それにより本来「人」が持っている調和(和)を悟ることができる。これは永遠の真理であるから「常」であると言える。そうなると物事の理がよく分かるようになるので、これを「明」という。太極拳でいえば相手と一体となる「粘」を体得し、それが自在に使える「走」となれば、相手の動静をよく知ることができる「神明」が得られる。こうした太極拳では本来の「人」としてのあり方を回復しようとしているわけである。これは老子のいう「和」から「常」「明」と全く同じである(「常」は「和」を常に保持できている状態)。


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