宋常星『太上道徳経講義』(56ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(56ー1)

「知っていても言葉にしない」という言い方では「知っている事」と「言葉にする事」を分けている。「名と形を忘れる」ということにおいては、天地の間にあって「名」と「形」をひとつのものとしている。「名」も「形」も天地に中にもともと存しているのではない。「名」は物の「形」を形容しているのであるが「物」にはもとから「名」があるわけではない。それに「物」にしても、決まった「形」があるわけでもないのであるから、きまった「名」はなおさらないということになろう。あらゆる「物」はただ存在としてあるのであり、それ以上でも以下でもない。あらゆる「物」の「形」は変化をする。そうした中において強いて「名」が付されているに過ぎない。修行者は、よく言葉にならないことに奥深い教えがあることを知っているであろうか。それは「言葉にならない真の言葉」と言うことができる。そこにおいては(言語を超越して)全てが語られている。また言葉として知ることのできない中に本当の「道」がある。これは「聞くことがなく聞くことのできること」とすることもできよう。こうしたことの分かっている人は「妙知」「妙言」「妙解」を得ているといえる。こうした天地と等しい境地にあっては、貴賤や親疎の違いはない。また自分というものもない。栄誉も恥辱もなく、我を縛る何ものをもないのである。この章では「不言の妙」がまさに語られている。またこれは道を貴ぶことでもある。道を知っている人は、自分を飾ることなく円滑に生きている。そして決して世俗に溺れることもない。道を修している人は「大同の妙」を知っている。それをして社会と対している。そうしたことを「玄同」という。生きていれば順逆、得失があるが、こうしたことの全ては修行者に影響することはないのである。


〈奥義伝開〉表向きは違いがあるように見えるものも本質においては等しいと老子を教えている。人であれば地位の高い人も居れば、低い人もいる。裕福である人、貧しい人、それぞれであり我々はそれらを一定の価値観をして見ている。しかし、あらゆる人が人である点においては何らの違いもない。全ての人は根本においては平等なのである。高い地位にある人もそれを失うこともある。貧しくても富貴を得る人も居る。つまり地位や富貴は変転極まりないのであるが、そうした中にあっても人は人であることには何らの変化もない。あらゆる存在が根本において平等であることを「玄同」という。「玄」は「暗い」ということで「よく見えない」という意味である。真の平等はよくは見えないが本質的にはそうであることを老子は教えている。


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