宋常星『太上道徳経講義』(54ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(54ー5)

「善」を身に修めれば、その徳は真(普遍的な真理)となり、それを家に修めれば、その徳は他にも及ぶことになる。これを地域に修すれば、その徳は広く及び、これを国に修すれば、その徳は尽きることがない。これを天下に修すれば、その徳は遍く及ぶことになる。

ここで述べられているのは、全て道徳を修したならばどうなるか、ということの妙である。それを行えば必然的にそうなるということの意味である。しかし、純粋に道徳を修することがなければ、その影響が適切に広がることはない。そうなれば道徳を堅持することはできなくなってしまう。そうであるから道徳を有する者はそれを離してはならない。そうでなければ先祖への祭祀を維持することもできはしない。あらゆる物には根がある。あらゆる事には起こりがある。つまり根があるから枝葉も出来てくるわけである。その起こりが正しくあれば、あらゆる事が成り立ち得る。つまり天下の起こりは国にあるのであり、国の起こりは地域社会にある。地域社会の起こりは家にある。家の起こりは個人にある。個人が人として立ち得る起こりは徳にある。徳があれば個人はそれを修することが出来る。そうなると家も整うことになる。地域社会も安定するし、国もよく治まる。天下も泰平になる。こうしたことの根本には、個人が徳を修するということがある。天と一体となった徳を修していれば、そこには私欲というものは入り得ない。これは私欲が全く起こらないというのではない。私欲が内に納まってしまい、徳そのものが表に出て来るのである。そうして徳が外に発せられれば、それは形を持つことになる。心身内外、全てが徳の実践となる。進退出入のあらゆる行動が、徳の実践となる。例え困難なことがあっても、それにとらわれなければ徳が害せられることはない。生死の際にあっても、それにとらわれなければ、また何ら徳の実践に支障を与えるものではない。とらわれることがなければ、どのような状況にあっても徳の実践の揺らぐことはないのである。そうして徳は個人において正しく修され、その徳が正しいものであれば、それは個人に留まるだけではなく家においても実践されるであろう。親には孝が為され、兄を尊敬し、弟には友愛をもって接して、妻とは仲良く、子を慈しむことができるようになる。こうしたことの根本は自分自身にある。一家の老人も幼い人も、全て徳の恩恵に浴させる。こうしたことも個人の心の真によっている。そうなればあらゆる人に善をして接することになる。そうであるから家において徳を実践すれば、その徳はあらゆる人にも及ぶのであり、それは家に留まるだけでなく、地域社会にまで及ぶことになる。そして特段に優れた人でなくても、人々は慎んだ生活を送るようになる。そうなれば驕ることも贅沢を求めることもなくなって、慎ましく暮らすようになる。地域の人の交わりも、義理を欠くことはなく、あらゆる人に純然なる徳が実践されるようになる。そうなれば地域の人たちは、徳を実践している人を見れば、敬いの気持ちを起こすことになろう。そうなれば影響は近隣の地域の人にも及ぶようになる。徳ということから言えば、とりわけそれに接した人は皆、それを尊いものと思うものである。徳が実践されれば、それは無視することのできないものとなる。徳の価値は永遠不変であるので、それを実践した人の評価は変わることはあるまい。つまり徳の実践は他からも価値を等しくして共有されるのである。こうしたことが「これを地域に修すれば、その徳は広く及び」と述べられている。さらにそれは地域社会で実践されるだけではなく、国においても実践されるようになる。徳の至善であるところは、国のあらゆる人に影響を与えるところである。そうして人々の行動を変え得るのである。そうした人々が常に有しているのは大義である。それをして天の理を知ることができる。こうして人の心が正しくなれば、それは君主にも及ぶであろう。そうなれば君主は信頼されるであろう。大義が官僚に実践されれば国に忠実なる行動がとられるであろう。それが人々に実践されれば、人々は安らかに暮らすことができるようになるであろう。その影響は日々に拡大し、日々に新たな展開をする。そうした中の個々の事は一時の徳の実践に留まるものに過ぎないが、それらの価値は万世に通じるものである。身近な徳の実践は、それだけに留まるのではなく万世不朽の価値を持っている。そうしたことを「国に修すれば、その徳は尽きることがない」とする。また、これは国において実践されるだけではなく、天下においても修せられる。徳は至善であるので、それは天地の広さと等しく広がっている。草木や昆虫、あらゆるものが生成の徳を修めている。賢愚貴賤、等しくあらゆるものは徳の恩恵を受けている。天下に人々は多く居ても、徳の恩恵を受けることのできない人は居ない。天下に物は多くあっても、その恩恵を受けないものはない。つまり万物は一体なのであり、天下は「一」なる徳の中にあるのである。その動きは留まることなく、遍くあらゆるところに及んでいる。そうしたことを「天下に修すれば、その徳は遍く及ぶことになる」としている。徳は遍く及ぶものなのであるが、果たして今の人は正しい心で誠意をもって行動しているであろうか。徳を身に修して、道徳を実践して家を整え、上を敬い、下を愛する。それが地域に及んで実践されれば、人々は無為、無欲となり、国が無事に治まって道徳、仁義が実践される。それは天下に及び、天地に広がることになる。あらゆる生き物はそうした徳の影響を受けるし、あらゆる物質もその影響を受ける。あらゆる存在が徳化されるのである。こうした徳を実践する人が「徳の君子」であるとされる。修行をする人は、こうしたことに努めるべきである。


〈奥義伝開〉老子は家も地域社会も国家もその国々も、全てベースになっているのは個人であるとする。そうであるから個人が覚醒すれば全ての問題は解決すると考える。資本家が搾取をしなければ労働争議も必要がない。進化論が注目されていた近代の神智学などでは、人類は霊的に進化して新たな霊的な器官を獲得することで、真の覚醒に至ると考えて、ヨーガなどの手法を取り入れたが、中国では伝統的に自己の内面にある「善」を発見すれば良いと教えて来た。儒教では生まれながらに人は「善」を有しているのかどうか、について大いに論争があったが、結論には至っていない。多くの場合は「善」を実行することが大事であり、人が生まれながらに「善」を有しているかどうかはあえて問う必要がないと考えていた。


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