宋常星『太上道徳経講義』(55ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(55ー4)
(自然のままであれば)体格が貧弱(骨弱)で、力が無さそう(筋柔)でもしっかりと握ることができる(固握)し、男女(牡牝)の交わりを知らなくても勃起をする。それは精が充実しているからである。また一日、声を出していても、枯れることはない。完全に(自然と)和しているからである。
「固握」というのは、手でしっかりと掴むということである。「牡牝」は男女のことである。「勃起」するとは性器が立つことである。「枯れる」とは疲れて声が出にくくなることである。赤子は無心であるから自分と他者を区別することはない。そうなれば(そこには自他の区別がないので)それに害を加える「他者」も存在し得ないことになる。体格が貧弱であったり、力が弱ければ強く握ることはできない。物を掴むのは難しいかもしれない。しかし握ることにとわれることがなければ(無駄な力を使わないで)自然としっかりと握ることができるであろう。男女の交わりを知らず、常に無欲であっても勃起をする。それと同様に意図しなくて泣いたならば、その鳴き声で声が枯れることはない。もし意図して固く握ろうとしたり、勃起をしようとしたりしたのであれば、あるいは意図して泣いたのであれば、その心は乱れているといえる。その気は散じているといえる。そうなれば肉体のエネルギー(精)は過度に消耗されてしてしまうので、すぐに枯渇をしてしまうであろう。自然にそれが起こるのであれば、例え一日、固く握っていたり、勃起していたり、鳴き声を出していても疲れることはないであろう。ただ、そうしたことが可能であるのは精気が至純でなければならない。精と気が融合して(至和)いなければ、そうしたことにはならない。そうであるから「(自然のままであれば)体格が貧弱(骨弱)で、力が無さそう(筋柔)でもしっかりと握ることができる(固握)し、男女(牡牝)の交わりを知らなくても勃起をする。それは精が充実しているからである。また一日、声を出していても、枯れることはない。完全に(自然と)和しているからである」とされているのである。人はよく「赤子」のようであることができるであろうか。全てが太和の気に満ちており、無心の境地に入ることができているであろうか。そこでは大いなる道が我が身と一体になっている。天地と一体となっているのである。そうなれば元神(注 根源的な意識のエネルギー)は自然に統一されて静を得る(凝寂)し、元気(注 根源的な肉体のエネルギー)は自然に虚と一体となる(沖虚)。こうした無為自然なる感応がここに生まれるのであるが、これこそが「赤子」と等しい境地なのである。
〈奥義伝開〉「骨弱」「筋柔」が「固握」となるのは、太極拳の拳訣「力は骨に発し、勁は筋に発する」を知ればよく分かる。「骨弱」とはむやみな「力」を使わないということである。そしてそこで使われるのは「筋柔」の力であって、それは感覚と一体となった力である。これが「勁」と称される。つまり感覚と一体となった「勁」を使うには過度に緊張した力(骨の力)を使ってはならないわけなのである。ここで述べられているのは合理的な力の使い方であり、それは全く自然であれば良いという発見であり、それは本来の「力」、「和」によって生まれる「力」のあるのを発見することなのである。