宋常星『太上道徳経講義』(55ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(55ー7)

若いものがすぐに老いてしまう。これは「道」と一体ではないからである。「道」と一体でないからすぐに老いるのである。

ここで述べているのは、気を意図的に使うことで健康・長寿を得ようとするのは誤った考えであるということであり、至虚、至柔であるべきことを教えている。それはまさに至道の妙というべきである。気を意図的に使って健康・長寿を得ようとするのは有為による誤りである。この世にあっては「道」は他に依存することなく働いているのであり、変化をすることもない。また「道」はあらゆるところにあって安定している。もし正道を行わないで、邪法を信じて、外から得た「気」によって健康・長寿を得ようとするならば、それは有為の邪気を使うことになる。これは全く徳の失われた状態でもある。これは柔でも和でもないし、自然の道でもない。そのような状態ではどうして常に久しくあることができるであろうか。あらゆるものは老いて行くのであり、死ぬものである。こうした状況で健康・長寿を得ようとして気を意図的に使うことは道から外れている。修行者は、直ぐに意図的なものを捨てなければならない。こうしたことを「若いものがすぐに老いてしまう。これは『道』と一体ではないからである。『道』と一体でないからすぐに老いるのである」としている。この章で述べられているのは、徳を得ることができれば和を体得することができるということであり、全て人は「虚」を得て「柔」を守るべきであることを教えようとしてる。大いなる道が真常(注 永遠に変わらない)であるのは全くそれが虚であり静であるからなのである。また大いなる道は全く柔であり、和でもある。そうであるから存在して不変なのである。人がこうした大いなる道によって生きて行けば、必ず「道」と一体となることができるであろう。徳もよく体得できることであろう。性と命は永遠で身体の中の和気は自然に動き、性における真常は自然に安定することであろう。こうして用いられる気は健康・長寿に有効である。


〈奥義伝開〉過度に心身の崩壊が進んでしまうのは心と身との調和(和)が得られていないからである。それは「道」と一体となっていないからである。生きているものは全て老いるが、それは自然であるべきであると、老子は教えている。早すぎても、遅すぎても良くないのである。人は「和」の状態にあるのが「常」であるから、争いはそれを制するのではなく、生まれないようにしなければならない。相手が攻撃しても争ってはならない。それを回避するべきである。そのためには一定の技法が必要であるが、そのテクニックは人が本来、有しているものであるといえる。それは「和」が本来の「人」のあり方であるからである。こうしたことを悟るのが「明」である。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)