宋常星『太上道徳経講義』(54ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(54ー3)

「善」をしてよく抱きかかえれば、それを脱することはできないし、

常に離れることがなく、心身が合一している。これが「抱」である。始めがあっても終わりが無いのは永遠であると言えよう。つまり「抱」という始めの行為が「脱」として終わりを迎えないのは「善」が実践されているからなのである。こうしたことがつまりは至「善」の理なのである。そうした状態で建物を建てれば崩れることがないばかりか、人がよく「善」であれば、そこに行為のよろしきを得ることができる。自己の中の大いなる「道」を保持していて、一時も離れることはない。「道」のままにあって、少しもそれを脱することがないのである。それは自然であり、天地と等しく限りがない。徳は日月の如くに明らかで、その功は天下に及んでいる。そしてそれは万物に及んで尽きることがない。それは時が移っても変わることはない。そうした状態が「善」を抱いているとされる。そしてそれは終わる(脱する)ことはないのである。こうしたことを「『善』をしてよく抱きかかえれば、それを脱することはない(注 宋常星の解釈に合わせて「不脱」をこう訳した。これは冒頭の訳とは違っている)」としている。


〈奥義伝開〉相手をホールドして逃げさせないのは、まさに太極拳でいう「粘」であり、「合気」でもある。中国でも、日本でも老子のいう「善」を体得するためのシステムは常に模索されていた。そのひとつの完成形が太極拳であり合気道である。「善」の実践という視点から見れば、相手と一体化した時点、相手をホールドして「脱」っすることのできない状態にした時点でそれは終わっているのであって、相手を投げたり、固めたりするのは「善」の実践からは派生した行為ということになる。これがよく分かるのは太極拳の「按」で「按」は掌を下に推して相手の攻撃を流したところで終わっている。次に前に掌を推すのは「按」に付属する動作である。こうした展開は老子の教える「善」そのもので「不脱」の状態がつまりは「按」というわけである。太極拳も合気道も相手を攻撃することを最終的な目的として見てしまうと、その本質を見失ってしまうことであろう。


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