宋常星『太上道徳経講義』(52ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(52ー8)

こうしたことは常にある(習常)ことである。

最後に述べられているのは総括である。ここまでは天下には始めがあり、それは「天下の母」とすることができる。つまり そには守「母」の道があるのであり、それは「道」に帰するということなのである、とされる。そして兌(あな)を塞いで門を閉じて(外との交渉を絶って)しまえば、死は免れ得ないものも、勤(つかれ)ることはない。それは守「母」の道にあるからであり身を守「母」の「道」に帰しているからである。一方「兌」を開いていろいろな事象に係わりを持つと、死が免れないばかりか、危害への救もがない、ということになる。それは守「母」の道に反しているからである。小さなものまで見て、柔を守るというのは、つまり守「母」の道を行くことであり、この「道」を内に蔵して生きるというなのである。光があれば明るくなる、とあるのは、これも守「母」の道を行くことであって、外的な事柄に対するのに、この「道」によるわけである。既によく「道」に帰することができていれば、それは身に備わっているわけで行為においても「道」に外れることがない。物事に対するにしても、その対応は「母」を離れることはないのであり、随機応変して適切な行為がとられることになる。これが、まさに日常的に起こる(習常)わけで、こうした人を常真の大いなる「道」にある人とすることができる。そうであるから「こうしたことは常にある(習常)ことである」とされている。この章では、全体として守「母」について語られているとすることができよう。つまり「子」があり「母」のあることを教えているわけである。それにより物的なことを通して精神的な静かな境地を知ることができる(反本復静)と教えてもいる。そうであるから決して物的なことにとらわれてはならないわけである。


〈奥義伝開〉最後には、合理的な考え方で起こることは当たり前のこと「習いの常」であるとする。人は天地の間に生きている。そうであるなら天地の間にある「理」を外れて生きることはできない。ただそれをよく知ることが「道」を知ること、となると老子は考えている。しかし、我々の周りには「思い込み」が実に多い。それは見せかけの「習いの常」である。しかし、そうしたものは、よくよく観察すればそこに矛盾のあることが分かる。


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