宋常星『太上道徳経講義』(54ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(54ー4)

子孫の行う祭祀も途絶えることがない。

至善の道徳は、天下にあっても、後世に及んでも、不朽なものである。つまり道徳とは広く深い「道」であり、人々はそれから離れることがないばかりか、子孫に及ぶまで人々は「道」と一体なのである。そうであれば子孫の祭祀も絶えることはない。古くから伝わる祭祀は全てが慣習となっており、決まった日に行われるものである。そして、その日に備えて潔斎をして、供え物を整えて、祭器を洗っておく。当日には供物を整えて謹厳に祭祀は行われる。遥か古代の祖先に思いを致し、子孫の孝養を尽くすのである。そうして祭祀を絶やすことなくして道徳の恵みを得る。「道」の修行をする者は、必ず天下や後世、子々孫々まで、道徳の恩恵を得ることができるのであり、それは尽きることがない。ここに道徳の妙がある。


〈奥義伝開〉「不脱」と同様の例として祭祀が挙げられているが、ここでは「不輟」として「輟(てつ)」の語が用いられている。この字は「又」が「部品」を表し、それが組み合わされて「車」になることを示しており、そうなれば全ては「車」となって個々に「又」のあることは見失われてしまう。つまり「輟」は「又」の意味が途中で失われて「車」となるということを表しているわけである。祭祀でいえば一回、一回の祭祀が連なっているのが途中で途絶えるのが「輟」であるが、「善」を実行していればそうした事態は生じないとする(不輟)のである。この「不輟」も太極拳の「粘」が相手の状況に応じて細かく変化をして「綿綿不断」となるのと同じである。ここの状況への変化の対応は見えなくなって、連続して相手をキープできているように見えるわけである。特に興味深いのはここで「不脱」と「不輟」が同じフレーズで語られていることであろう。やはり老子は何等か後の太極拳に通じるようなエクササイズを実践していたのではないかと思われるのである。


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