宋常星『太上道徳経講義』(52ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(52ー5)

兌(あな)を開けば、(外的な)物事に係ることになり、身は亡くなるし(危険から)救われることもない。

ここで述べられているのは、守「母」を失った時の害についてである。聴く、見る、言う、行動することにおいて自重することがなければ、正しく見ることはできないし、正しく聴くこともできない。また正しく言うことも、行動することもできはしまい。名や利を追い求めて、内には心を疲弊させてしまう。本来、心というものは一定の過度にならない範囲で用いられるべきものである。そうでなければ、その行為が適正であることはできない。性(注 本来の心のあり方)において善なる性を働かせることができなくなってしまうのである。そうした状況で身を滅ぼさないで居られた者はない。心の中の真心を失わないで居られた者はないのである。日々、心は外的な事柄にとらわれていて、その根本(である「道」と一体であること)を自ら壊してしまっている。つまり「母」が「子」を失っているようなものである。身の根本を養おうとしても、それが既に無いならば、性と命を長く保つことはできないであろう。それは「子」を知らないということであり、そうなれば「母」自身にも害を及ぼすことになるわけである。そうであるから「兌(あな)を開けば、(外的な)物事に係ることになり、身は亡くなるし、(危険から)救われることもない」としている。今、修行をしている人で、見たことにとらわれることなく忘れてしまうようであれば、それは無極を潤すことができる。もし耳で聴いたことにとらわれることがなければ、その心や意識は常に深いレベルにあることができる。身の中の「子」と「母」は自然に適正な状態となり、あらゆることにおいて自然にその本質(つまり道)を知ることができるようになる。我が「性」「命」も、それを助けようとしなくても、自ずから助かっていることになるし、物事の根源(である「道」)を知ることも思いのままとなるのである。


〈奥義伝開〉外的なものと交渉を持つと危険も招くことになる。また亡くなることから逃れることも叶わない。そうならば、どうすれば良いのか。それは次に述べられる。人は外的なことと全く没交渉であることもできないし、かといってそうしたことに係ると大なり小なり危険に遭遇することになる。そこでできるだけ危険を回避するには、事態をよく観察して柔軟な対応をすることが大切であると、次に老子は教える。


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