宋常星『太上道徳経講義』(53ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(53ー4)
朝廷はまったく存することなく、(税金を払わせるための)田は全く荒れ果てて、(税金を入れておくための)倉には何も入っていない。
ここで述べられているのは、人々が行くのを好むところの「道」について具体的なことを述べている。朝廷において「存する」ことがないというのは「階段が無い」ということである。土や石を積んで高台を作り、そこに建物を建てて階段を設けて上り下りをする。これを「存することなく」させるのである。老子は当時の宮廷の建物を見て、高く立派で、厳しく建っているのを、やり過ぎであると思ったのであろう。そして、そうした宮殿は存するべきではないと言っているわけである。「荒れ」ているというのは、田で耕作が行われていないということで、そうなれば雑草が多く生えて来る。これが「荒れて」いる状態である。「入っていない」というのは、耕作がなされていないからで、そうなれば倉に入れるようなものも無くなる。倉に何も無いことを「入っていない」としている。もし、大いなる「道」が行われることがなければ、それは人々だけではなく、朝廷の中や、あるいは国政全般にも広がってしまう。そうなると壮麗な宮殿が建てられたりする。そして農業は妨げられ、宮殿が壮大になるとなれば、そうした朝廷は好ましくないものとなろう。この時に民の力は朝廷に支配されているわけで、そうなれば農業は必ず廃れてしまうことになる。しかし民の力が田にあって適切な耕作が自由にできれば、けっして田が荒れることはない。田が荒れているのは、国が好ましくないコントロールを農家にしているからであり、そうなれば倉に入れる収穫もなくなってしまう。倉に入れる収穫がなければ、民を安んじ、国を富ませることなどできるはずもない。国が富むことがなければ、いくら朝廷の建物が美しくても、大きくても、これを民は好ましいとは思わないであろう。それは見かけだけの美しさであって、内実が備わっていないからである。本質が失われていれば、結果もそのようになものとなる。つまり無為の「道」が行われていないということである。有為の害があるということである。そうなれば国も治まることがない。家も安泰ではない。身も整わない。民はあるべきではなくなる。これは全て「道」を外れているからである。そうしたことを「朝廷はまったく存することなく、(税金を払わせるための)田は全く荒れ果てて、(税金を入れておくための)倉には何も入っていない」としている。
〈奥義伝開〉ここでは搾取のない社会のことが具体的に述べられている。つまり搾取を行なう機関もないし、搾取をする仕組みも、それをプールしておくところもない、というわけである。ただ搾取の仕組みは一旦できあがってしまうと、ますます肥大化する。搾取を行なう機関には、それを管理する機関ができ、さらに搾取の仕組みは精緻となり、さらに大きな経費が必要とされて、さらに大きな蓄えがなされるようになる。個人がこうした大きなシステムに対抗することはできない。搾取のシステムから離脱するしかない。個人と国家は「契約」によってむすばれているのであるから、それを破棄すれば搾取のシステムから解放される。中国では昔からそういった人々が居て山奥に村ごと逃げたりする事例があった。これが「桃源郷」伝説にもなったのである。また日本でも「逃散(ちょうさん)」という行為が行われていた。