宋常星『太上道徳経講義』(53ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(53ー6)

こうしたことを「盗誇(とうこ 盗むを誇る)」というのであり、「道」に非ざるものである。

ここで述べられているのは、ここまでの総括である。先には宮殿や衣食、飲食の華美であることや余りある財貨のことが述べられていた。これは民を苦しめて楽しもうとするのであり、そうして奪ったものを自分の為に使う。そうして楽しみを得るのは民と共に楽しむことにはならない。財貨にあっても民と共有することが無ければ、それは民を「光」の外に置くものであり、そうしたところでは「道」は行われることなく、その本質は失われている。そうなれば内政は脆弱となり、行われるべきことも行われないようになってしまう。こうした中に楽しみを得ている者は、自分でそれを得ているのではなく民の楽しみを盗んで楽しんでいる。富を得ている人も民の富を盗んで得ている。そうであるから「盗誇」と言われている。これは盗賊に例えているのであり、盗賊が自分の行っていることを誇っている、というわけである。民から盗んで楽しみ、富んでいることが知られても、それを自責の念を持つこともない。こうした人は「道」を得ているとはいえない。行っていることを見れば、それが分かる。つまり外を飾ることがあまりに過度であれば、民はそれを止めてもらいたいと思うわけである。所謂「無為の道」は、天地が無為であるままなのであり、そこにあらゆる物が生きている。聖人は無為であり、そうして天下を治める。こうしたことを聖人の無為の道という。こうして天下の有為の民をして「道」に帰せさせるのである。上にある者が無為であれば、下の者も無為となる。そうして上下は等しく無為を実践していれば、(天下は「道」のまま治まることとなり)民が意図的に何かをしようと思うこともなく、上の者が財を蓄えようとすることもなくなり、天下の民と財は自然に共有されるようになる。そうなれば剣をして威を示すことがなくても、自然に民はなびくようになり、田は荒れることもなく、倉も自然に満たされる。衣食や宮殿、財貨の華美であることも自ずから無くなる。天下を治めようとするのであるなら、謙虚でなければならないのである。


〈奥義伝開〉最後に老子は「搾取」を「盗誇」という語で示している。これからは老子が「搾取」のあることを完全に意識していたことが分かる。現在でも税金などは「仕方のないもの」と思い込んでいる人が多いが、必ずしもそうではないことを老子は既に指摘していたわけである。多くの税金は一部の人の利益に盗用されていることは毎年のように会計検査院の報告でも明らかにされている。武術の世界でも「道」に非ざるおかしな方法を宣伝するような人は「盗誇」の奴である。そうした者に騙されないようにするには、当然あるべき道理、つまり「道」と違うことがないかをよく考えてみることが大切である。


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