宋常星『太上道徳経講義』(52ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(52ー7)
(光のない)そこに光を用いることができれば、明かりは戻ることになる。(こうして細部まで明らかぬすることができれば)身に災いの生ずることもなくなるのである。
先には小さなことまで見て、柔を守ることが述べられていた。それはつまり「明」の働きがあるからである。それは「明」るい光を用いることで、細部まで「明」らかに知ることができるわけである。「明」とは、心の徳をして気持ちを内に向けること(心徳内照)である。「光」とは心の徳を外に向けること(心徳外応)である。「光」を用いるとは「明」に帰するということである。つまりここには基本と応用が共に存しているのである。「光」の基となっているのは「明」である。「明」るいのは「光」があるからである。つまり「明」るさの中には既に「光」が含まれていることになる。また「光」の中にも「明」るさがあるのであり、そうであるから「光」を使うと「明」るさが得られるわけである。つまり「明」るさは「光」であり、「光」は「明」るさなのである。こうしたことがあるので「(光のない)そこに光を用いることができれば、明かりは戻ることになる」とあるのである。ただ人はよく「明」を基として「光」を用いることができるであろうか。その「光」を内に向けて、その「明」に帰することができるであろうか。つまり「光」の働きは外に向かうことにあるのである(注 意識により外的な事柄を認識すること)が、そうするだけではなく、内にある「明」の中へと「光」を帰するのである(注 内を見つめることと、外を見ることの二つが行われなければならない)。「明」であれば「昧(くらい)」くなることはない。内外が一致して、基本と応用がひとつになる。これがどうして我が身に害となるであろうか。そうであることを「身に災いの生ずることもなくなるのである」としている。これは天地にあっても、善と悪とが共に忘れられ、自分にも他人にも共にとらわれることがない。「明」の働きは「光」の奥深い働きにある。つまり「明」とは「光」の働きでもあるということである。「光」と「明」は渾然と一体となっている。本来的には基本も応用もないのである。
〈奥義伝開〉老子が述べているのは、光があれば明るくなる、ということで、そうなれば小さなものまでよく明らかにすることができると言う。この場合の「光」とは明晰な意識の例えである。これに対して宋常星は「光」を仙道の小周天のように「意識」として解釈する。小周天では「回光返照」を行うが、「回光」が内面へ意識(光)を向けること、「返照」が外面へ意識を向けることである。またこれは止観とも共通している。「止」は内的に正しい状態にあるように整えること(欲望を止める)であり、「観」は正しい意識で世の中を観察することで、正しい認識、悟りを得ることである。こうした内と外との関係を重視する修行は静坐においても重要となる。