道徳武芸研究 武術の流派名について考える(3)
道徳武芸研究 武術の流派名について考える(3)
太極拳は楊露禅が北京へ伝えたのであるが、この時に学んだ呉家に伝えられた伝書には単に「太極拳」とのみ記されていて、楊家太極拳とはしていない。後に太極拳は北京から上海へと南方へも広まるが、それは近代になって交通が発達して人の交流が盛んになったからである。上海では「ドラゴン怒りの鉄拳」の設定場所であった精武体育会で教えられたことが南方地域へ伝わる大きなきっかけとなったといえよう。その時に北京出身の呉鑑泉の北京の言葉が、上海の人には分からず、鑑泉が「うー」とか「あー」とか言うのを聞いて「次!」と言っているものと解釈して次の動作に移っていたという。これは、かつて太極拳では一つ一つの動作をしばらく止めて鍛錬することが重視されていたからである。鑑泉は一定の高さに糸を張って生徒の頭がそれを越えると(足がつらくなって姿勢が高くなると)容赦なく打ったという。楊家、呉家という名称が何時頃から言われ出したのかは分からないが、上海では楊家と呉家の太極拳の正統が問題視されたこともあったらしい。