宋常星『太上道徳経講義』(53ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(53ー5)

服はきらびやかで、名剣を帯して、飽きる程の飲食を摂り、財貨もあまりある程もっている。

大いなる「道」のないところで、良い結果を求めようとするのは、有為の「道」である。そうなると民を疲弊させるだけではなく、壮麗な宮殿が築かれたりすることにもなる。また服装は派手になり、ただ人々の目を惹くことばかりを考えるようにもなる。また名剣を持って、それを誇ろうとする。あるいはいろいろな美味を求めても満足をすることがない。天下における重大事に関心を持つことがなく、些事にばかりこだわっている。ただ美しい服は自己の欲望を満たすに過ぎないのであり、名剣も人々に権威を示すだけのものである。美味である食べ物も、ただ口を満たすだけで終わってしまう。余りある財貨も、身を養う糧となることはない。こうしたことが起こるのは全て本質が失われているからであり、有為によっているからである。大いなる「道」が行われれば、全くそうしたことは起こらない。それを「服はきらびやかで、名剣を帯して、飽きる程の飲食を摂り、財貨もあまりある程もっている」としている。そうであるから「道」を得ている人は、華美なる服を着ることはなく、ただ大いなる「道」を大切にしている。名剣を帯して威張ることがなくても、その行なう仁義によって自ずから敬畏を得ている。過度に美味な飲食を求めなくても、徳を味わっている。余りある程の財貨がなくても、充分であると思っている。天下であっても、国家であっても、全ては一つの「道」が実践されるべきなのであり、それ以外に国政の寄るべきはなく、民の生活の寄るべきはないのである。君臣でも父子でも、それぞれの大いなる「道」の実践がある。上下、尊卑であっても、大いなる「道」は行われている。皆が大いなる「道」の中にあることを意識することなく、共に無為による統治をを楽しむ、そうなれば天下に広まる歌において「有道の君」を万民が讃えるようになるであろう。このような太古の聖なる時代の聖なる君主のような統治が行われていれば、どうして有為をして大いなる「道」を忘れることがあるであろうか。


〈奥義伝開〉ここでは、おおいなる「道」に外れた事例が示されている。これには物的なとらわれが「過度」であるところに特徴がある。内的な充実がないので、外的な充実を「過度」に求めすぎるわけである。つまりは心身のバランスが崩れているために「過度」となってしまうわけである。それは、ここであげられているように外的に「爆発」するだけではなく、内的にも例えば余りに禁欲が過ぎると、抑圧された欲望がおかしな方向で「爆発」したりする。密教での「性」、禅宗での「怒」これらの「暴発」は過度の禁欲と悟りへの抑圧が招いた仏教システムの崩壊である。そうなるのであれば例え迷信であっても、ただただ「ありがたい」と盲信をして生きる方が良いと「妙好人」を鈴木大拙が好ましいとしたのも分かるような気がする。結果としてこれは無為の生き方と通じるものがあるからである。しかし、本当の無為とは明確な意識によって為されなければならない。


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