宋常星『太上道徳経講義』(53ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(53ー3)

大いなる「道」は、ひじょうに「夷(たいらか」なるものであり、人々はこれを行くことを好むものである。

ここで述べられているのは、無為の大いなる歩みそのものであり、それは天下の有為の害を無くさせるものでもある。平坦である歩みのことを「夷(たいらか)」とする。それは無為の大いなる「道」のことであり、平穏で好ましい状態にあって、あるべきに準じている。それは平らかであり、何らの障害もない。天の働きのままに為し、意図的に動くことはない。ただ少しでも何かを為そうとしたならば、それは無為ではなくなってしまう。大いなる「道」は天地に働いているが、(そうした働きを見せない)天地の無為の妙がそこにはある。物事にあっては、それを行うのに無為をして行う。人の心にあっても無為の妙がある。それは大きな路のようであり、何らの歩み難さもない。古から聖人の聖人たるは、こうした大いなる「路」に順じているところにある。そうであるから聖人といわれる。聖人の賢いところもまた、この「路」に順じているところにある。そうしたところから賢さは出ている。どのような世俗の人でも、迷って執着をして、邪な考えを抱いていては、決して平坦な「路」を歩むことはできない。あえて歩み難い曲がりくねった「路」を歩むのは、名声や富貴を求めたり、何か良いことがないかと思っているからである。また「理」に反して、「私」にこだわり、うまく世渡りをしようと思ったりしているからである。おかしなことをして、本来の心身のあり方に反して、自分だけのことに執着している。そうした偏った思いを持って、自分がひたすら誤った「路」を行く。そうなればいよいよおかしなことになってしまう。こうしたことを「大いなる『道』は、ひじょうに『夷(たいらか)』なるものであり、人々はこれを行くことを好むものである」と述べている。


〈奥義伝開〉大いなる「道」は、それが行われていることに気づくことのないような存在であるのであるから当然に何らのストレスも感じることのない「夷(たいらか)」な状態であるとすることができよう。またそれは生きることと同じであるから、人はどちらかといえば、その「道」にあることを好むものである。「夷」であれば、争いの起こることもない。あらゆる存在が共に生きていくことができるのが「道」の実践されている世界なのである。


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