宋常星『太上道徳経講義』(54ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(54ー1)
日月は天にあって、大いなる「道」によって光を放っている。それは「私」によるものではない。聖なる王がかつて政治をとっていた時には、大同の徳による統治が行われていた。それも「私」によるものではなかった。日月の働きにも「私」はない。そうであるからその光は遍くあらゆるところを照らしている。聖なる王の徳は無私であったから、天下のあらゆるところにその統治が及んでいた。そうなれば天下が善く治まっていることに人々は疑いを持つこともなく、自分だけのことを考えることもなくなり、貪りの気持ちを持たず、富や権力を求めることもない。このように「道」によって天下は感化されていたのである。そしてその徳はあらゆるところに及んでいた。天下の民は「道」の徳を抱いて、その美を愛で、それを実践して、それを楽しんでいたのである。他人のことも自分のことのように思い、あらゆる人が自分と等しくあると考えていた。つまり天下の人を自分の家族と同じように考えていたわけである。また皆、同じ故郷の人のように、同じ国の人のようにも考えていた。天下は「一」つの天下と見なされていた。こうした状況にあっては身は修められ、家は整えられて、故郷で人は和し、国は安らかに治まり、天下は泰平となる。そうでなければ大同の徳を修めることはできないし、人々が自分のことだけを考えるようになって天下は騒がしく、安らかさを欠いて、乱れ乱れてしまうことになろう。ここで述べられているのはこうした状況においてなされる「善」の実践についてである。この章では「善」ということが重点的に述べられている。「善」とは無為を行なうことであり、自然のままにあるいうことでもある。もし、これをよく会得することができれば、あらゆるところにおいて「善」は実行されるであろう。
〈奥義伝開〉ここでは「善」が実行されればどうなるか、が述べられている。先ずは「善」とは自然であるということで、人は本来「善」を有しているとする。そしてその特徴として協調性と親和性が挙げられる。もし個々人が「善」に覚醒したならば、理想的な世の中が実現されるとする。それは「大同」の世といわれるもので、人々は自由であり差別も搾取もない世界である。かつては搾取や差別のない世界は階級闘争や武力革命によって実現されると考えられても居たが、老子は争いによっては、あるべき世界は実現されないと教えている。つまり搾取をしようとする資本家なら資本家が労働者を搾取をしようと思わなければ搾取はなくなるわけである。また冒頭で述べられている「不抜」「不脱」は武術的には安定と親和性をいうものであり、それを体得しようとすることは、つまりは「善」の覚醒へのアプローチとなることが示唆されている。