宋常星『太上道徳経講義』(10ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(10ー3)
専ら気を柔に致せば、よく嬰児たらんか。
一歳にも満たない嬰児は、元気が傷つけられていることなく、乾体(純陽の体)は破られてはいない。何も知識を得ることのない時には、気は「専ら(純粋)」の妙を有している。何もできない嬰児は、和の妙に至っている。そうであるからただ気が柔らかなのであり、無欲、無知で、無思、無慮、神気はよく一を抱いている。魂魄はそうであるから互いに相従っている。私の見るところ今の内煉をしている人(丹を煉っている人)は、神気を集中させて、雑念を除いているに過ぎず、ただ呼吸を調えているのみである。そうであるから神は気の中に入ることはできず、気はよく神に帰することがなく、真息も発生することがない。つまり「一」を抱くことができないわけなのであり、専ら気を柔に致すことができないのである。嬰児には自然の妙があるとすることができよう。そうであるから老子は「ただ気を柔らかにして、よく嬰児のようであるべきである」と教えているのである。
〈奥義伝開〉この「嬰児」の状態は太極拳などでも教えとして説かれることが多い。気を柔らかにするには「嬰児」のようであれ、ということなのであるが、この「嬰児」とは「一」を抱いている状態であって、そうであれば神、気、精が一体となっているとされる。あるいは行動と意識が一体となっていることをいうとすることもできる。確かに「嬰児」は打算がないので、空腹であればそれを訴えて泣き、楽しければ笑うに過ぎない。しかし人は成長する過程でいろいろな打算を覚えるようになり、意識と行動とをあえてひとつにしないことがある。