道徳武芸研究 武術における「実戦」性(2)

 道徳武芸研究 武術における「実戦」性(2)

さて武術における「実戦」性が「体力」「技術」「運命」によって成り立っていることは前回に述べたが、「運命」についてもかつてはなんとかそれを制御しようとして、神仏に祈る法が武術の一部とされていたこともあった。近世にはこうした「迷信」を最高の伝授とする巻物も多く作られている。しかし、こうした「迷信」に頼るよりは、相手を思いやる気持ちを常に持って敵を作らないようにした方が、はるかに有効であることを忘れるべきではなかろう。それはともかく武術における「実戦」性を考える上で具体的に最も大きな関心が寄せられるのが「技術」であることはまちがいのないことである。おもしろいことに現在、古武術の「技術」を解明していることで有名な師範の動きを見ると、通常の武術家のそれとは大きく雰囲気が違っていることに気づく。よくよく考えて見ると、それはマジシャンの動きにそっくりなのである。マジシャンは、カードならカードを、実際に持っている腕は何も持っていないように見せて(筋肉が緊張していないように見せる)、実はカードを持っていない腕はあたかもカードを持っているように見せる(筋肉が緊張しているように見せる)。こうした見る側の視覚を通した「思い込み」の違いを誘うことで「不思議」を演出するのである。くだんの師範も、力を入れていないと見せてそこには力が入っており、入れていると見せて入れていない。そうであるから技を受ける方は、その意外性に驚くことになる。


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