宋常星「太上道徳経講義』(10ー6)
宋常星「太上道徳経講義』(10ー6)
天門、開ガイすれば、よく雌となるや。
「天門」は「人心」ということである。「人心」は体全体を統御している。そうであるから「天門」といっている。「開ガイ(開閉のこと)」は「陰陽」であり「動静」である。「雌」は「安静」「柔弱」を意味する。人の心の「竅(あな)」からは「出入」「動静」といった変化を出すことが可能であろうか。「安静」「柔弱」といったものを出して、その道によって一切のことに対応することが可能であろうか。どのような時であっても、無心であればそれに応じることができる。静である時も、無心であれば自ずからそれを受け入れて静となることができる。これが「天地の門の開け閉め(開ガイ)を知る」ということであるが、すべては自然の妙であり、そうであるから聖人はただ内面を見つめる(内照円明)だけで、物事が生じても「理」によって適切に対応できるのである。むりに陽をして陰に勝たせるようなことはせず、感情によって「性(本来の心)」を傷つけるようなこともしない。物欲に迷うことなく、流されることもない。そうであるから「性」は傷つけられることなく、心の乱れることもない。気は志を迷わせることもない。これがつまりは聖人の天門の開け閉めなのであり、外からの影響を受け入れるがそれが不適切なものであれば流されることのない「雌」の妙なのである。何時、人心が外からの影響を受け、それに反応する「出入り」をするか分からないと、動静は一致せず、物事へのこだわりが生まれて、私欲が生まれることになる。喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲といった七情の迷いが興るわけである。何かを感じて感情は発せられる。修道をする人は、すべてはこのところをよく分からなければならない。私欲といった不適切な感情(陰情)に負けてはならない。つまり「心の門が外界に対して開いたり閉じたりしていて、その影響を受けるがそれに流されることはない(天門、開ガイすれば、よく雌となるや)」ということが大切なのである。
〈奥義伝開〉「天門」とは頭のことで、そこに穴(眼や耳、鼻、口)があって、そこを通して我々は外界の影響を受ける(宋常星はこれらを通した先で情報を受け入る「心」を「門」とする)が、その門は開いているべき時もあれば、閉じているべき時もある。それを適切に行うようにしなければならない、というのである。そのためにはいちいち情報の適不適を判断して開いたり、閉じたりするのではなく、心を静かに自然のままにして自ずから適切な開閉が起きる状態にあることが大切であるとしている。それは人としてのあるべき道である「徳」を実践していれば自ずからそうなるものとされている。