宋常星『太上道徳経講義』(10ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(10ー4)
玄覧を滌除(じょうじょ)すれば、よく疵(きず)無からんや。
「滌」とは洗うということである。「除」とは取り去るということである。「玄覧」は多く見て、多く聞くということで、古いことに広く通じて今をよく知っていることである。「疵」は病のことである。私見によれば今日の学者は、広く古いことから新たしいことまで良く知っていて、物事を広く追究している。しかし『射猟簡編』には「もし耳目を通して学んだだけであれば、それは真の知見ではない」とあるが、こうした知の修行を、まったく問題なく「無傷」で行おうとすることは、難しいことなのであろうか。そうしたところからここでは「よく多く見聞きしたことを洗い流してしまえば、無傷でいることも可能なのである(玄覧を滌除すれば、よく疵無からんや)」としている。真の知見というものを詳細に考えるなら、物事の本質は形の外にあるものとすることができる。見たり聞いたりできる範囲を越えたものであり、そうであるから見るところは極めて広く、知るところは極めて大きいとしても、またあらゆる儒教の教典は聖人の心の内を記しているが、そうしたものをことごとく読破したとしても、いまだ道を得ていなければ、川を渡る筏を借りたに過ぎない。しかし道を得た後に、儒教の本に書かれていたままの表面的な内容をきれいに洗い流し忘れて、それを書いた聖人の心を忘れないようにすれば、寂然不動の境地に入ることができるであろう。そうであるので、兎を捉える罠を仕掛けただけで兎を取った気持ちになったり、魚を取る罠を仕掛けただけで魚を取ったように思ったりしてはならないのである。一切の法における夾雑物をすべて洗い流さなければならない。それは病気が治れば薬を飲むのを止めるのと同じで、「疵」という病がなくなって後も薬を飲んでいればそれはかえって害になることを忘れてはならない。
〈奥義伝開〉その物事の持つ意味の奥深いところを知ったとしても、それだけにこだわり過ぎてはかえって本質を見失うことになる。太極拳の推手なら推手に習熟し過ぎると、他の方法での攻防に対することができなくなってしまう。かつて塩田剛三は植芝盛平の道場に見学に行った時、「やってみますか」と言われて、柔術の先生であるから蹴りには弱いであろうと思って蹴っていったという。柔術の修行者はその範囲に特化した技術を磨いているので、他の動きには対処できないであろうと思ったわけである。しかし、盛平はこれを難なくさばいた。同様な話は楊澄甫にも伝わっている。習熟することは悪いことではないが、それだけにとらわれてしまうとかえって何も知らない時よりも危険が増してしまうこともあるのである。