道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(3)
道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(3)
静坐でも先天真陽の一気を感得してもそれを進陽火によって頭頂へと上げなければ、それは生殖の欲望にひかれて「精」となって流れてしまうとされる。もちろん「潜んでいる龍」を感得しただけの状態の心身は、完璧に聖なる状態を希求するレベルからは程遠い。ただ「虚」の一端、聖なるもののあること、その重要性を感得し得たに過ぎない。それは往々にして「実」に流れ、欲望に支配されてあるべき方向に進むことができなくなることもあるのである。田にあった龍つまり「蛇」はいよいよ淵にあって「龍」となる「易経」には「躍(おど)りて淵に在り」とする。「淵」は老子も語るように深い瞑想の境地をイメージする語と解することができる。老子はしばしば「道」を「淵」のイメージで語っている。ここに「田」にあった蛇は、「淵」にあって「龍」と化すのである。つまりここに「変容」の生じていることが示されているわけである。つまり深い瞑想の境地である「淵」を体得することによる生命の根源の力である先天真陽の気は聖なるものへと「変容」を遂げようとすることになるのである。