宋常星『太上道徳経講義」(9ー3)

 宋常星『太上道徳経講義」(9ー3)

揣(おさめ)てこれを鋭くす。常に保つべからず。

聡明であったり、才知に優れていたりする人は、それを収めることを重視するべきであり、けっして見せびらかしたり、誇ったりしてはならない。それは鋭い刃を収めるようなものである。初めは磨いて鋭くする。そして注意して磨いて適当なところで止める。とめどもなく鋭くして行って、一本の毛が触れて、それに息を吹きかければ切れる程になったならば、それ以上にすることはないであろう。しかし、こうした刃には物を切る以外に、それが折れて使う人を傷つけるということがあるのを知らなければならない。刃をととのえることが余りに過ぎたならば、折れやすくなってその状態を永く保つことはできない。人の聡明さや才知も、あまりにそれを誇ったならば、鋭すぎる刃と同じく永く無事ではいられない。そうしたことを「調整をして刃を鋭くしたなら、何時もそうした状態であることはできない(揣てこれを鋭くす。常に保つべからず」としている。古の聖人は天下のあらゆる「知」を「知」として得ていたのであり、天下のあらゆる「善」を「善」として得ていたのであるが、こうした大いなる知を得ている聖人は愚かであるように見えるものである。本当に巧みであるものはその中に拙劣なるものを含んでいる。ただ一般的にはそれが見えないだけで、そうであるから不都合の生じることがないのである。


〈奥義伝開〉これはある特定の目的に特化し過ぎると、変化に対応できなくなるということである。刃物で「切る」という目的に特化し過ぎると、「折れる」という事態に対処することができなくなる。武術も攻防に特化し過ぎると、心身の健康に破綻が生まれる。また攻防にしても、常に「組手」をしていると、その「組手」の範囲の攻防には長じてくるが、それ以外のパターンにはかえって対応が難しくなったりする。どのようなものにあっても、ある程度の「無駄」「遊び」を確保しておくことが重要なのであり、中国武術でひとりでの形が多いのもそうした理由によっているのであって、あえて強くなることに特化しないようにしているわけである。


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