宋常星『太上道徳経講義」(9ー2)

 宋常星『太上道徳経講義」(9ー2)

持ちてこれ盈(みつ)れば、それ已(や)むにしかず。

天の道にあっては「虚」が貴ばれるが、「盈」はそうではない。「虚」であればなんでもそこに入れることができるの妙がある。しかし「盈」ではこぼれ落ちてしまう心配があろう。「盈」を持つとは、一杯になった器を持っているイメージで、少しでも器を傾けてしまうと溢れる心配があるわけである。そうであるので、一杯になった器を持つことは止めた方が良いということになる。むしろ持たない方が良いというわけである。一杯になった器を持つことを止めれば、つまりは「盈」てどうなるかといった心配はなくなる。器を傾けてこぼしてしまう心配はないわけで、体も心も緊張がなく安心していられる。これは善いことではなかろうか。そうであるので、「(一杯になった器は)持ちこれ盈れば」「(持つべきではない)それ已むにしかず」とあるのである。「盈」を持つとは、ただ一杯になった器を持つということだけではなく、高位高官を極めたり、范蠡(はんれい)のように巨万の富を蓄えたりすることでもある。そうなればなったで、そこまでには自分の実力は至らないのではないかと心配したり、得られた名も財もたいしたことはなく、まだその上があるのではないかと思ったりして、常にそうしたものを失うような危険は避けるようにして、小さなことでも気になって仕方がない。こうして心配ばかりしているのは、どうして器が一杯で心配をしているのと異なることろがあるであろうか。道がそうであれば進み、道がそうでなければ退く。得ることに執着することなく、貪ることもない。このように道のあるがままでいれば永く安らかでいることができるのであり、たとえ「盈」を持ったとしても、その災いを生涯受けることはないのである。


〈奥義伝開〉やり過ぎにならないように適当なところで止めることを考えなければいけない。これは自分が「適当」と思う一歩手前くらいが適切な時機のようである。「まだやれる」「いま止めるのは惜しい」と思うくらいの時に止めるのが良いのであり、この時機を逸すると自分では止めることができなくなってしまうことがある。ものごとを止めるのにも気力が要るのであり、その余裕を失ってしまえば、もうどうすることもできなくなってしまう。こうしたことを「天機を逸する」という。


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