宋常星『太上道徳経講義」(8ー11)
宋常星『太上道徳経講義」(8ー11)
それただ争わす。故に尤(とが)無し。
これまでに水には七つの善の妙があることが示されてきたが、それはすべて争わないという道でもあった。水はまったく万物と争うことがない。そうであるから万物もまた水と争うことがないのである。水と万物は争うことがない。これを水の「上善」という。善く万物を和するのである。万物すべてがその和を得たならば、どうして水に怨みや尤(とが)の生じることがあるであろうか。こうしたことを「ただ争わす」と言っている。争うことがないから尤もない。ここではこのようなことが言われている。もし心が止水のようであれば、高いところから下へと流れて低いところに居るのことになるが、これは「善地」に居るということである。もし虚心で志を養えば、意識は外に向かうことなく内面を見つめる(含光内照)ようになるが、これは心が「善淵」の虚地にあるということである。またあらゆるものを愛して捨て去ることのないことを続けたならば、それは「善仁」を行ったことになろう。言うことが誠で、心と口とが一致していれば、これは「善信(まこと)」を言っていることになろう。物を扱うのに、自分にも他人にも執着することがなければ、これは「善治」において対していることになろう。またもしどのような形でも、適宜適用に合わせることができたなら、それは「善能」を働かせているということになろう。また行うべきを行うことができ、止めるべきを止めることができたならば、それは「善時」に動いているということができる。こうした七善が実践されていれば、あらゆる物がうまく行くし、道そのものが実践されているということになる。争わない境地に居れば、またどうして天下に怨みや尤を得ることなどあるであろうか。
〈奥義伝開〉老子は調和を「善」と見るのであり、それを「水」の働きから感得したようである。考えてみれば太極の双魚図も二匹の魚が互いに追い合っている様子といわれるが、これを渦巻きと見ることもできるであろう。「淵」には静かなところ(無極)もあるし、渦を巻いているようなところ(太極)もある。「善能」のところでも述べたように、こうした老子の感覚は後には更に細かな表現となって、ただ「水」とされたものが無極や太極といったものとして表されるようになるのであるが、その根本は同じであることを知らなければならない。また縄文土器などの水の表現においても老子の「水」と同様の感覚によるものとも考えらるのかもしれない。