宋常星『太上道徳経講義」(9ー4)

 宋常星『太上道徳経講義」(9ー4)

金玉、堂に満るも、これをよく守ることなし。

金や玉は自分自身の外にあるものである。本当に内にある道徳が重要であると分かっているなら、あえて外にあるものを取り込もうなどとは思わないであろう。身命こそが重要であることが分かっていれば、金や玉を多く得ようと誤った貪りの心を持ってしまうこともあるまい。かりに家の中が金や玉で一杯と成ったとしても、亡くなる時には、それを死後の世界に持っていくことなどできはしない。そうであるから「金や玉が家一杯であっても、それを永遠に自分のものとすることはできない(金玉、堂に満るも、これをよく守ることなし)」とされているのである。修道の人は、もしよく身の中の「金や玉」を得たなら、「性命の真常」をよく養うことができよう。そして身の外の「金や玉」は穢れたものとして映ることであろう。そうなれば心は自ずから清浄となり、進退の時を知っていて、貪ることも誤った考えを持つこともない。永遠に清浄な心のままで居られるのである。


〈奥義伝開〉身の内の「金や玉」とは、先天真陽の気のことである。これは「虚」であるとされる。つまり「実」の世界の他に「虚」の世界のあることを知る経験が身の内に「金や玉」を得ることになる。これを「得丹」などともいう。「実」の世界では社会秩序により故人は厳然として支配しているが、内的な「虚」の世界にはそうした一切の支配の及ぶことがない。しかし、こうした本来は自由な内的世界も、外的な秩序を経なければ入ることはできないと宣伝されていることが多い。組織に属したり、教えを受けないと「正しい道」に入れないというのである。こうした固定した行為や考えはすべて「実」であり、これを通しては真に「虚」の世界に入ることはできない。


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