宋常星『太上道徳経講義』(10ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(10ー1)
ここでは人の体とは、つまりは「国」を持っているようなものであるとする。体には「気」がある。それは「国」に「民」があるようなものである。この「国」の中には君臣、父子、夫婦、陰陽があって、国にあって人の体に欠けているものなどない。そうであるから修道の人にあって、もし体は安らかで、気が順調に流れているなら、それは体という国土は安泰であるといえる。もし、よく無欲、無為であったなら、「体」の中の「万民」は自ずから静を得るであろう。ここでは「一」を抱いて気をあるべき状態に保つことが述べられているが、それはまさに自分の体が安らかで気が順調に流れているということなのである。ここではまた「玄覧を滌(あら)い除く」ともある。これは「国土」を清静にすることであり、無為であるということである。それはつまりは私欲をして民を乱すことがないということでもある。また「知ること無し」ともあるが、それは隠れて徳を厚く行うことで、その姿は一般の人々と何ら異なるところがないということである。ここで述べられていることの秘密の教え(密旨)は、体において用いて体を修めるる、というところにある。またこれを家に用いれば家を調えることができる。これを国に用いれば国を治めることができる。仮にもしそうでなければ、ただ自分の中には利欲や怨念が少なからずあって、そのためにわけの分からない行動をしてしまうことになる。つまり体を修めることはできないわけである。家を調えることはできないわけである。国を治めることはできないわけである。そうであるから丹を煉ろうとする者は意図して煉らないことをして、あえて丹を煉るのである。道は無為にして為されることを為すのであって、それは譬えば三茅真君の言うように「霊台は清く澄んでいて氷壺のよう。ただ元神がそのに居るのを許すのみ。もしこの壺の中にひとつでも物を留めたならば、どうしてよく道が虚清と同じであることを証しできようか」ということになる。体の中の「国土」は自然であり清静である。またここでは「玄徳」が述べらているが、これはすべては心において道が明らかにされるということである。こうしたことを体を修することをして国を治めることに例えて教えている。
〈奥義伝開〉宋常星は老子の教えの中に儒教の四書のひとつである『大学』にある考え方を読み取ろうとしている。そこでは個人の「心」を正しくすることが、自己の「身」を修めることになり、それが家から国、天下へと、あるべき秩序を得させることになるとするものである。またこれは一般的には大宇宙と小宇宙としての人体を同じものとしてとらえる神秘学に普遍的に見られる考え方でもある。よく儒教は「政治」的な立場で、老荘は「隠逸」的と考えられているが、これは特に老子に限っていうなら間違いである。莊子には多分に隠逸的な傾向があるが、老子は政治的な事柄にも多く言及していて、宋学などの儒教的な視点に近いものがあるといえる。