宋常星『太上道徳経講義』(43ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(43ー1)
大いなる道の奥深いところは「体」があれば必ず「用」があり、また「用」があれば必ず「体」があるところにある。「体」とは無極であり太極でもあり、それは実理でもある。「用」は陰陽であって、これにより物が生まれる。この陰陽はまた見方を変えれば「体」ということもできる。もし「体」があって「用」がなければ、大いなる道の実理は実現されることがない。これは「体」があって「用」が無い場合である。また「用」があって「体」がない場合では、万物の生成はその根拠を持つことができなくなる。こうしたことがまさに「体」と「用」なのであり、これらが互いに存していれば、それぞれが「体」となり「用」となる。また、こうしたことを五行の気の働きということもある。また「体」が行われるのが「天」で、それが具体的な存在として「用」として現れるのが「地」であるとも言える。こうした「天」には「体」や「用」が働く「機」が有されている。これが働かなれば陰陽の働きが具体的に現れることもない。つまり「地」において具体化されること、「用」の現れることがないわけである。また大いなる道の「体」と「用」の「機」が働くことがなければ、剛柔の形も現れることがない。つまり、こうした状態では「体」と「用」との関係性をうかがい知ることはできないわけである。この章にある「至柔」とは、大いなる道の「用」である。「至堅」は万物の現れである。物的な存在は形を持つのであるから「至堅」とすることができるが、道はそうした中にも入り込んでいる。金石の中にも入っているし、どのような物もそれを貫通して入り込んでいる。そうであるから、あらゆる物は変化をするのである。つまり「至柔」は「至堅」である万物と一体となっているのである。こうしたことは思いも及ばないことであろうが、これこそが大いなる道なのである。同様なことは「心」においても見ることができる。それは「無為の益」で「不言の教」とされている。こうした「無為の妙」がよく体得されれば、有為による行為は多いなる道と乖離したものと分かる。つまり、天の道(大いなる道)をよく悟って、そのままを行うべきなのである。
〈奥義伝開〉ここで示されている老子の考えは後には「陰陽互蔵」と称されるものである。陰は陰だけで存在しているのではなく、陽も陽だけで存在しているのではない。陰には陽が含まれ、陽には陰が含まれているとする。それぞれが相手の持っているものを有しているので、その共通性によって相手との関係性を築くことができるとするのが「陰陽互蔵」の考え方である。こうしたことから導かれののは「万物斉同」で、あらゆる存在は「平等」であるとする思想に他ならない。至聖なるものは、至俗なるものでもあるわけで、例えば至聖なる王は、物乞いをする乞食よりも卑俗な存在で、物を乞うるならまだしも他人から収奪をしてしか生きることができない。こうした社会のシステムをよく知っていれば、誤った」「常識」に振り回されることもなくなり、自分本来の生き方ができる、というのが老子の教えである。