宋常星『太上道徳経講義』(44ー6)
宋常星『太上道徳経講義』(44ー6)
多く持ったならば、必ず手放す時のダメージは大きくなる。
「極端なこだわり」があれば、多大な浪費をしてしまう可能性がある。多くのものを有していると、それによってかえって身を滅ぼすこともある。人は天地の間に生まれて、どのような行為も、それのあるべきが決まっている。本来、富貴である天命を持っていればそうなるであろう。本来が貧しくなるものとして生まれて来ていれば、自然に貧しくなるであろう。どのような行為も、すべて天の理によっている。長生きであるのも、短命であるのも天の理である。あらゆることは天の理なのである。「極端なこだわり」はむだに力を費やすのみである。「多くもつ」者は大きなストレスを覚えることであろう。世間を見ると、天の命を分からずに居る者があるようであり、天の命を守らないで行動している者があるようである。自分は貧しいと思い込んで、少しでも利益が得られそうであれば、人としてのあるべき行動をすることもない。常に不足を思っていて、自分の現状に対して真の理解をすることもなく、ただ不幸であると思っているだけで、真の不幸であることの意味を理解しようともしない。そうであるから、とにかく得られるものは何でも得てしまうので身に危険の及ぶことになる、得ることも、捨てることにも正しきを行うことができず、そうなれば誤って得て、誤って捨てて、後悔も生じるこにもなろう。自分が害を被ることもあるであろう。過度に所有していると失うとダメージも大きくなる。そうであるから道を養おうとする人は、目をして過度の華美を見ることを欲することなく、耳をして乱れた音楽を聴くことのないようにしなければならない。鼻をして特異な匂いを嗅ぐことを好むことなく、舌をして心地よさを貪ることのないようにしなければならない。また身をして、卑しい振る舞いをしてはならなず。意をして、邪な考えを持ってはならない。体の器官が正しく働けば、真気は円滑に流れて、生成の働きが日々になされ、無為、無欲となり、徳性は失われることなく、よく保たれる。精神は天地と一体となって徳は長久で、その道性(道と一体となっている自分本来の心の働き)も太極と同体となる。こうしたところにはけっして過度であることの憂いの生まれることはないのである。
〈奥義伝開〉先の文では精神的な執着を述べ、ここでは物質的な執着について触れている。ただ精神的な執着も現実的には物質的な執着となるのであり、物質的な執着の根底には精神的な執着があることは言うまでもない。古代の王であった仁徳(天皇)は租税の収奪があまりに過酷で、人々が困窮の極みに陥っているのを見て、それ以上の収奪を一時的に諦め、民間の経済活動の回復を待つことにしたことが知られている。収奪を止めた仁徳の暮らしは困窮に陥ったとされている。余りに「過度な収奪」の結果はそれが行えないという「極端な結果」を招くことになる。ここで老子が教えているのと同じである。不思議なことに戦前からこの逸話は本来、収奪があまりに過酷であったという点に目が向けられることがない。そうした矛盾を顧みられることなく、収奪を止めたということだけが「聖なる徳」として受け入れられているのは不思議なことである。古代においてもし、そのまま過酷な収奪を続けていれば人々はその支配地域から逃亡して行ったと思われる。それに気がついた仁徳はやはり偉かったのかもしれない。