道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(4)

 道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(4)

実際のところ大東流のような手の操作による合気が極めて限定した場面でしか掛けることができないのは、合気が本来的に逃げるための技法であるからに他ならない、刀を使わせないように必死で抑えて来るのを解いて、どうにか刀を使おうとするための方法として考案されたのが合気なのである。そうであるから合気だけで相手を投げたりするようなことは、本来的に想定していなかったわけである。剣術に付属するものであった合気が柔術へと展開する中でシステム上の齟齬が生まれてしまう。武田惣角は「柔術は教えるが、合気は教えない」と言っていたともされるが、これは裏を返せば合気を使わなくても柔術を使うことはできるということでもある。瞑想でも武術でも、単にリラックスすれば良いというものでもないし、テンションを高めすぎるのも好ましくない。その場その場で、どのような心身の状態が適切なのかをよく考えて修行する必要がある。リラックスの方法を知っている人には合気はかからない。井上鑑昭はそれを知っていて武田惣角を翻弄したとされている。


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