宋常星『太上道徳経講義』(44ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(44ー3)
自分自身(身)と財産(貨)とはどちらが重要なのであろうか。
永遠に滅びることのないもの、それが「道身(本来の自己)」である。一時的に存しているのが「幻身」である。「道身」は、天地の正しい理を得て、万物の造化の働きを備えている。それは貧しく身分が低いところに、その「心」を求めるものではないし、富んで身分の高いところに、その「意」が存するのでもない。「道身」と「幻身」の違いは「身中の富貴」の有無に依る。「身中の富貴」と「身外の富貴」は違っており「身中の富貴」は財貨を貪ることでは得られない。つまり財貨を貪るようになってしまえば我が「身中の富貴」は成り立たなくなるのである。ただ幻のような身にあって、妻子や一族と離れることもできず、衣食の欲に囚われて、社会的な地位や財産(名利)を争い、ひたすらに財貨を求めて貪る。それのためであれば、どのような地の果てであってもそれを求め、どのような苦労も厭うことはない。虎や狼の穴に入ることも辞さないで、自分の生命も顧みることはない。まさに刀で切られようとしても、欲望のためであれば恐れはしない。こうした人は、その身を軽くして財産を重んじているわけである。しかし、この身が無ければ、財産を持つこともできはしまい。今、財産を求めている人は、どうして身と財産がどちらが重要であるか比べてみないのであろうか。身と財産はどちらが重要なのであろうか。だれでもそれは財産の方が重要であると言うことはできまい。つまりどちらが重要かは全くもって明らかなのである。そうであるので「自分自身(身)と財産(貨)とはどちらが重要なのであろうか」と老子は問い掛けている。よく考えてみると富貴を得るのは天の命によるものである。人はそれをよく聞かなければならない。もし財貨を貪って道を得ることができないならば、その災は必ずもたらされることであろう。不幸を必ず被り、身を立てることも出来なくなってしまうことであろう。持っている財産さえも保つことはできなくなってしまうことであろう。古くから天の命を聞く者としては(孔子の弟子の)顔回が第一とされている。顔回は一膳の飯を食べ、一杯の水を飲むばかりの生活であったが、そうした貧しい暮らしは、よく人の耐えることのできるものではない。しかし顔回はそうした生活を楽んで変えることはなかった。そうした顔回の心も知らず、ただ至富、至貴にこそ生きる楽しみがあると思っている。そしてその多さだけを見て、それが少なくても幸福でいられることを知らない。つまり財産があるからと言ってそれで心も富んでいるとは言えないのであって、高い位を得ているからといってそれで貴いと思えるものでもない。道を学ぼうとする人は、こうした富貴のあり方を知っておかなければなるまい。まさにそうしたところに本来の自分を養うことができるからである。
〈奥義伝開〉先の名声は内的なこと(人々の心の中での評価)であるので、それを具体的な数として計ることはできない。一方、ここでの財産は外的なものであるから、それを計ることもできる。こうした「目に見える」ものは更に執着をしてしまいやすいので、注意を促している。こうした富と名声への執着について芥川龍之介は「杜子春」でひとつの考察を行っている。最終的には平凡に市井に生きることが本当の幸せであるとするのが芥川の結論のようである。ただ唐の時代に書かれた「杜子春伝」では人としての執着(愛)から脱し切れなかった杜子春に仙人はただ「勉めよ」とのみ言っている。これは、何とか努力してやって中庸の道を見出してやって行け、ということである。つまり過度に富や名声にこだわるのも苦しいが、また倫理的なものをまでも捨てて「仙人」として生きるのも虚しいばかりである。杜子春が仙人ももとを一旦離れ引き返した時「絶えて人跡無し」とあるのは味い深い表現である。仙人もそれが居た痕跡も虚しくなっていた、というわけである。