宋常星『太上道徳経講義』(44ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(44ー2)

名声(名)と自分自身(身)とでは、どちらが自分本来のものなのであろうか。

「名」とは名声のことである。人は社会にあって「身」を有していれば、何らかの「名(社会的な評価)」を持つものである。社会的な評価(名)は自分自身(身)が存在することで生まれる。また自分自身は社会的に評価されることでその中で生きて行ける。もし、自分というものが存在していなければ、社会的な評価を受けることもない。そうであるが社会的な評価は一定のものではなく、常に変わって行くものでもある。つまり今、得ている評価も、何れはなされなくなり、また新たな評価を受けるようになるわけである。そうして社会的な評価(名)は常に変化をする。かつての評価は忘れられて、新たな評価を受けることになるわけである。こうしたことが起こるのは、社会的な評価そのものが何ら実態のないものであるからに他ならない。そうであるから自分の「身」を大切に考えて、その社会的な評価はあまり気にしない、というのが好ましいのではなかろうか。往々にして世間には社会的な評価にこだわっていて、自分の「身」とそれと、どちらが大切であるかよく分からなくなっている人が居るようである。あるいは偽りの名声を得て、自分を見失ってしまう人、または高い名声を得て、かえって自分を害することになったりする人も居る。それは「名」にのみこだわって、「身」の大切さを忘れているからである。むしろ「名」は軽んずべきものであることを知らないからである。「身」は重要であり、それは「名」よりも重んじられるべきものである。そうであるから「名声(名)と自分自身(身)とでは、どちらが自分本来のものなのであろうか」と老子は問いかけている。歴史上に「名」のある人は数多居るが、こうした人は徳を多く積んだ人である。これは行為によって与えられた「名」であり、たまたま得られたといった類の「名」ではない。そうであるから天下に広く、あらゆる人に知られているわけである。万世不朽の「名」となっているのである。こうして、その人の身(身)は社会的な評価(名)によって知られることなり、それはたとえその「身」が亡くなっても「名」は永遠に残ることになる。そうであれば「名」が「身」を害することもない。(既に本人は亡くなっているのであるから)自分自身が「名」を損なうようなことをすることもない。例えば孔子は万世不朽の大いなる「名」を持っているし、老子も永遠に廃れることのない大いなる「名」である。しかし生存中に、この二聖は何ら「名」にこだわることはなかった。こうした「名」は求めることなくして得られたものなのである。立てようとしなくても自然に立った「名」なのである。こうしたことからすれば現在、有名になろうと思っている人は、それがどういうことなのかをよく知るべきであろう。


〈奥義伝開〉ここでは名声と自分自身とでは、どちらが重要であるか、と問いかけをして自分自身の方が重要であることを導こうとしている。名声は他人から与えられるものであり、人はこうした「他者からの評価」といったことに際して特に自分自身を見失いやすい。老子は第二章で「功成りて居らず」と教えている。何かを成し遂げても、その名声を甘受してしまえば、それによって利益を得る集団から離脱することができなくなる危険を述べているわけである。老子の教えの優れている点は、名声を拒否することも勧めていないところで、利益を享受する集団は拒否をしても、それを許さない。周囲の人が知らない内に消えて行くのが上策なのである。


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