宋常星『太上道徳経講義』(43ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(43ー5)

「不言の教」「無為の益」、これらを知る人はこの世では殆ど居ない。

ここで述べられているのは、これまでのことと同じである。先には「無為」は有益である、ことが述べられていたが、それは「天地自然の道」でもあった。また同じく「天地自然の道」においては「不言の教」も実践される。そうしたところに「無為」の益があるのである。つまり、この世の一切の万物は全て「無為」の中にあるのであり、そこから生じている。こうした「無為の道」とは、つまりは「至柔の理」でもある。また、この「至柔の理」は、あらゆるところに通じてもいる。「至柔の理」は有無を貫く「無」に属してるのであるから、あらゆるものの中に入り込んでいる。それは色も形も無いし、名さえも有してはいない。そうであるのであらゆる物にこの「至柔の理」は入り込んでいるのである。特別に入れようとしなくても自然に入り込んでいるのであり、自然のままに入り込んでいるわけである。特別なが働き掛けがなくても入り込んでいて、意図しなくても入り込んでいる。そして何の働きかけもなくて万物を成長させているのを見ることができる。何らの働きかけがなくても変化が為されているわけである。それぞれにおいて「生成の理」が働いているのであるから万物は等しく造化の妙を得ていることになる。こうしたところに「無為」の有益性がある。そうであるから「無為の益」「不言の教」「無為の益」は万物に生じている。つまりそれは「至精(物的なエネルギーに満ちている)」であり「至微(どのようなところにも入り込んでいる)」でもあって、「至極(極まりない)」「至柔」ものであり、ここに「神(物質の霊的な側面)」は完全なる充実を得ている。この世のあらゆる万物法は全て「至柔の理」から生まれている。総ての「物」はこの「法=理」によって生じていて、。これに違う物はない。ただ「至柔の理」は直接見ることができないので「それを知る人はこの世では殆ど居ない」わけである。古(いにしえ)より聖人は、身を修め家を調え、国を治めて天下を平らかにすることができるとされているが、こうしたことは全く「理=心」と「物=体」が一体であるからに他ならない。当然のことであるが意図して「法=理」に特に頼ろうとしなくても、人は自然にそれに依っている。ただそれを知る人は多くはない。道の修行をしようとする人は、世俗の感情を放下して、大いなる道の「無為」を体得し、「性(心のエネルギ)」「命(体のエネルギー)」を益あるものとして養うべきである。そうであれば必ず「至堅」を動かすことができるであろう。「至柔の理」はあらゆるところに及んでいても、この世にあってそれを知る人はごく稀なのである。


〈奥義伝開〉先に老子は「自分は『無為』が有益であることを知っている」と述べており、さらにここで「不言の教」「無為の益」を示している。これらはおそらくは当時の格言であろう。あえて言語化しない、あえて行為化しない、そうしたところに究極の教えを見ようとする秘教的な伝統があったことがうかがえる。こうした教えは世界に普遍的に存している。しかし、老子はその真の意味を知っていると言う。それは「柔」と「堅」のように、「柔」があるから「堅」をよく使うことができる、という教えなのであって、「不言の教」は「有言の教」があって、さらに深い認識が得られる。「無為の益」は「有為の益」があることで、より広範囲な活用が可能となる。武術の技も「定」と「変」があることで有効に使うことが可能となる。


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