宋常星『太上道徳経講義』(44ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(44ー1)

人は太極の理によって生まれ、体を得て形と気を正しく受け、天地の間にあって万物の霊長たり得る。これは「至貴」というべきであろう。人には天地の総ての「理」が備わっている。そうであるから一定の寿命以上に長く生きることはできない。そうでなければ天地の「理」に背くことになりかねないからである。もし無闇に長生きをしてしまえば、あるいは求めるべきではない「名」を求めたくなることもあろう。百歳、千歳も生きていれば得るべきでない「富」を得たくなることもあろう。こうなると社会的にも(名)、個人として(実)も正しく生きることができなくなってしまう。そうなれば、たとえ「富」を得たとしても、それは害でしかあり得ない。果てしなく「富」を貪っても、満足が得られることはなく、永遠に貪りを続けることになる。そうなれば凶事にも遭うことであろう。不幸が続き、ますます生活は荒れて、日々、太極の理から離れて行く。これを邪な道に入るというのであり、それは天の「理」に合うものではないし、人として行うべきことでもない。そうであるから人には常に「慎」が必要なのである。この章では、あらゆる物は永遠に存するのではない、そうであるから物が永遠にあると思ってはならず、そうでなければ、必ず人生において失敗をすることになることを教えている。


〈奥義伝開〉ここで老子は「長久」であることが「道」と一体であることの証となると言う。「長久」とは長生きをすることなのであるが、ケガや病気あるいは事故や災害、戦争、犯罪など人は時にいろいろなことで寿命を全うできないで、その生の終わりを迎えてしまうことがある。中国では「病なくして死す」というのが好ましいとされている。老衰で「自然」に亡くなるのが良いわけである。そのためには老子の教える「知足」「知止」が重要であろう。「知足」は現在でも使われているが、一定程度のものが得られたならば満足をして、過度な追求をしない、ということである。「知止」は止め時を知る、ということで、これも過度にならないで、適当な時に止めることを決断しなければならない、という教えである。


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