宋常星『太上道徳経講義』(43ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(43ー4)

自分は「無為」が有益であることを知っている。

これは先のことを受けている教えで、先には「至柔」が「至堅」を働かせている、とされていた。また「有無は間の無いところに入る」ともされていたが、これらは全て「作用」を言うものではなく「自然」「無為」の道をいったものであった。ここに改めて「無為」の道を考えてみると、それは「自然」の理こ依るものであって、その「順応の妙」であることが分かる。つまり万物は「無形」から成るのであり、万物は「無心」から生まれているわけで、こうした「無為」の益を自分は知っている、と老子は言っている。これはまた「有益の妙」を知っているということでもある。無為の「体」を養えば「性」は自ずから浄化される。そして「心」は正しくなり、自然の「理」に違うことなく、「情」は自ずから「和」するようになる。万法の本来は「一」をして貫かれている「理」にあるのである。


〈奥義伝開〉ここで「無為」とあるのは先の「柔」や「無」と同じである。かつて実戦が主流であった時代の武術では心を養うことの重要性が説かれたのも、同じ考え方で恐怖や驚きで体が動かなくなってしまえば、どのような技も意味をなさなくなってしまうからである。また中国では「武術家は戦って亡くなる」とする教えもある。それは腕に自信のある武術家が、往々にして実戦の場で心を乱されて、卓越した技も使えないで敗れてしまう危険があることを教えている。どのような優れた技術もそれを発揮できなければ知らないのと同じである。老子は目先の「技」だけではなく、真に重要なことは「技」を使う「心」にあることを教えている。


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