宋常星『太上道徳経講義』(43ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(43ー3)

有無は無の間に入っている。【有無は間の無いところに入る】(宋常星の読み)

「無」とは、無形、無質のことである。無色、無象のことである。天下の万物は等しく「有」に属している。「無」は「理」であり、「有」は「物」である。「無」は「虚」であり、「有」は「実」である。「有無は間の無いところに入る」とは、例えば「石の中の火」のようなもので、それによって珠には輝きがあるわけである。つまり「無(火)」が「有(珠)」の中に入り込んでいるわけで、これを詳しく見るなら本来「無」とは「無」なのであって、それ以外ではない。つまり「無」は「有」ではないわけである。そうであるならば「体=無」は「有」である物の中には入り得ないということになる。「大」きいという性質(体)を有している物(用)は、「小」さいという性質(体)を有している物(用)の中には入ることはできない。「小」は「小」であり、「大」は「大」であって、そこには入るべき「間」はない。先天(天の体)や先地(地の体)は、あらゆるところに存している。後天(天の用)や後地(地の用)もどこでもそれを見ることはできる。もし「有」の中に「有」を入れようとしても、それは何らの変化ももたらさないことであろう。「有」に「有」を入れても「有」であり、変わることがないからである。そうであるから「間の無いところ」とされている。人の心も同様である。万里の道も、一念が起こることで歩みが始まる。もし行こうと思わなければ、万里の道の果に至ることはできない。千年も前の事でも、それを知ろうと思わなければ、絶対に知ることはできない(行為という「有」は意識という「無」が入ることで働きが生まれる)。金石であっても、意思であっても、(「無」が)あらゆるものに入るべき「間」はあるのである。それは微妙で工夫を要するものかもしれないが、必ず入るべき「間」はある。天地は大きいが、我が心の「理」は小さい。万物には限りがないが、我が心の「理」には限りがある。しかし、そうしたものであっても、相互に通い合うことはできる(天地、万物は「有」で心の「理」は「無」であるから「無」は「有」の中に入ることができる)のである。人がもし小私、寡欲であって「無」に近づいたならば、我が心の「妙」が働いて、大いなる道の「元神」と通じることができるであろう。そこに何らの阻害も生まれることはない。あらゆる「理」はこうして遍く「有」の中に入り込んでいるのである。


〈奥義伝開〉ここでは有無の関係性について述べられている。つまり「無」の中に「有」が含まれているということである。それは空間こそが有用なのであるとする発想で、部屋は空間があるから物を置く、人が住むという有用性があるわけなのである。こうしたことは第十一章の「無用の用」として出ている。そこでは車輪や器、窓、部屋をあげて空間のあることで働きを持つことが説明されている。老子は特に柔や無といった一見して用をなさないものにこそ用の根源があると教えている。つまり、それは現代でいうならソフトパワーとハードパワーのことで、ハードパワーを使うのはソフトパワーであるという視点である。


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