宋常星『太上道徳経講義』(44ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(44ー7)
常に一定の満足感を持つこと(知足)で、社会的な失敗(辱)をすることがなくなる。
ここまででは「名誉(名)」を貪ること、「財産(貨)」を貪ること、そして過度な執着、過度の所有について述べられているが、これらにおいては、すべからく「一定の満足感」が持たれることがない。そうであるから満足感が得られないのは過度な貪りの害とすることができよう。ここでは「常に一定の満足感を持つこと(知足)で、社会的な失敗(辱)をすることがなくなる」とある。「知足」とは天が与えてくれた使命(天命)を楽しむことである。その正しきを受け入れて、決して過度な貪愛の思いを抱くことなく、無欲、無為であること、これがつまりは「知足」なのである。そうであるから「知足」の人は、過度に美しい衣服などを求めることなく、ただ衣服は体を温めることができれば良いとする。食べ物にあっても、過度な美味を追求することなく、ただ粗食で足りるとする。見たり聞いたり、言ったり、行動したりすることにおいても、適性な範囲に留まるように自分を制する。そうしていれば、身は安全であり、道のままに生きることができる。世俗にとらわれることなく、心配や困惑を抱くこともない。それはどうしてか。「知足」であればもともとが、社会的な失敗をすることがないからである。強引なことをしないので、無理が生まれることもない。社会的な失敗とは、天がその行為が正しいかどうかを判断した結果である。それは自分が如何に行動したかにかかっている。もし、天命のままに行動していれば失敗したとされることも最後にはそれが正しいことが分かるものである。
〈奥義伝開〉この章で老子はひとつのことを内と外とで説明をしている。「知足」は内的な満足感であり、「知止」は外的な行為である。老子は結果について執着をしないので、それをそのままに受け入れる。これが「知足」である。もし、改善点などがあれば、それはまた次の段階のこととする。「社会的な失敗」がないというのは、失敗と認識しないからである。松下幸之助は「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければそれは成功になる」と言っていたようであるが、まさにそうした考え方を老子は教えている。さらにこれを老子的に言うならば「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。それに構わず続ければ失敗の生まれる余地はない」となろうか。