宋常星『太上道徳経講義』(43ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(43ー2)

この世における至柔は、この世における至堅を働かせている。

この世において「道」は、その存在を認めることはできないし、働きそのものを見ることもできない。それは「至誠」「至真」で、あらゆる物に影響を及ぼしている。そしてどのような時にも働いている。これがまさに「至柔」なのである。「働かせている」とは、大いなる道の物の生まれる「機」においてである。それは走る馬のように留まることなく、万物はそうした移り変わりの生まれる「機」の連続の中にある。それが自然なのである。これは何かの意図によって生じているのではない。こうした「機」によって物の生成が行われ、万物はそれぞれ異なる形を有している。物の形が違うのも、寒暑の違いがあるのも同じで、歳月が巡っていて、それぞれの生成の「機」が働いて違いが生じてるわけである。讃と穿は同じではないし、屈と折も違っている。ただ道の「至柔」は「無倫(一定のルートがない)」から来ているもので、それは「無間」であるところに入り込む、ということなのである。天地には空間があまねく広がっている。それ(空間)は部屋にも満ちている。空間はあらゆるところに遍満しているのであり。それが「至柔」とされている。そして、あらゆる物を働かせているのが「至柔」つまり「空間」なのである。ここに「この世における至柔は、この世における至堅を働かせている」とあるのは、こうしたことを述べている。


〈奥義伝開〉一般的には堅いものが働きを持っていて、柔らかなものは大きな働きを持たないと考える。しかし老子の「柔」の発想は「柔」を組み立てている「矛」と「木」によっているのである。この「木」とは矛の柄のことで、柄がしなることによって払い、突き、巻き込みなど矛の堅い「穂先」を充分に使いこなせるようになるわけである。これが「至柔」と「至堅」の発想の原点となっている。一般的に老子の「柔」は「剛」に勝るなどといった教えは、単に韜晦を述べているだけのように受け取られることが多いが、実際はここに見られるような実体験から得られたものなのである。日本では槍や棒は樫などを使うことが多いが、中国では特に柔靭なシナトネリコ(白蝋樹)が好まれる。これは老子にも通じる文化伝統ということができるであろう。


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