道徳巫覡研究 「武」と「舞」の身体文化(4)

 道徳巫覡研究 「武」と「舞」の身体文化(4)

王子和は高弟の鄧時海が太極拳を練習する時に音楽を流すのをひどく嫌っていたという。しかし鄧時海は何人かが同時に太極拳を練習するにはテープから流れる音楽に合わせた方が普及には便利であると考えたのであるが、王子和は太極拳はあくまで個々人の内的な衝動によって動くべきものであるとする本来の考え方にこだわっていた。太極拳は例え抽象化された動きではあっても、実戦が想定されていて、その心身の変化の「衝動」によって動きは導かれるべきとされている。これは気の変化の機会ということで「気機」ともいわれる套路を練ることで生起された心身の変化に応じて動きはなされなければならない。太極拳の心のあり方としては攻防の形を相手を想定して練るのではなく、ただ無心に練ることが求められる。そのためには套路そのものに攻防の気機が含まれていなければならない。そうであるからゆっくり動けば太極拳になる、というものではないわけである。そうして適切な変化を行うことのできる心身を修練して実戦に臨むわけである。これは太極拳ばかりではない武術全般にいえることでもある。そしてこうした中に「機能美」としての芸術性が育まれる。こうしたことが分かれば大陸で盛んな「表演」武術の無意味さも理解されることであろう。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)