宋常星『太上道徳経講義』(27ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(27ー6)

「善」をして結ぶとは、縄を結ばなければ解けることはないということである。

天下の人々は、空しく愁いて妄りに思いを巡らせて、心身を疲労させている。それは縄を結ぶのと似ている。精神をやたらと費やすと、ついには幻を見るようにもなる。そうなると「善く結ぶ」ことなどできるはずもない。「善く結ぶ」とは、実査は縄を結ぶことをしなくても結ぶことのできることであり、それは「聖」なる者も知ることはなく、「神」なる者も分からない、天地の精を結ぶからである。よく造化の根本(理数の造化)を結ぶからである。王道の根本(王道の紀綱)を結ぶからである。聖賢のみが行うことのできることにおいて結ぶからである。天地の精神を結ぶには、修身をもってして、立命をしなければならない。そうして造化の根本を結ぶことができれば、吉凶を知り、変化を知ることが可能となる。王道の根本を結ぶことができれば、国の興廃を明らかにし、存亡を知ることができる。聖賢のみが行うことのできることと結ぶことができれば、家や国を治めることができるし、天下を平らかにすることも可能となる。それは「無形」をして縄を結ぶのであるから、どのようにしてもそれを解くことはできない。鬼神もどうすることもできない。それは天地の根本を乱すことは不可能であるからである。あらゆる事がこの天地の根本によってなされており、あらゆることにおいて、この聖人がよく結ぶのと、等しいことが行われているのである。そうであるから「『善』をして結べば縄を結んで解けないということはない」とされる。どのような人であっても、昼は思いを結び、夜は夢を結んでいる。何が良いのか、どうすれば名誉や利益が得られるのかといったことのいろいろが深く心を捉えている。恩讐や好悪の思いは、呼吸を詰まらせ、その結びの解けることがない。それは絶えることなく続いて、終日終夜、体と心との結びの解かれることがない。寝ても、食べても、夢でも、誰もその結びを解くことができないで居る。こうしたことが明らかとなる日、その巧みさは拙劣さとなり、本来は解くことのできないものも解けてしまう。道を学ぼうとする人は、それを知っておくべきであろう。


〈奥義伝開〉ここでは「善」の実践が合理性をもって為されるものであることが最後に述べられている。絶対に解けない結びとは、結ばないことにある、というわけである。絶対的な不敗は争わないところにある、というのと同じである。これが後の「善」と「不善」の関係ともつながってくる。「一」として表される一個のシステムにおいては「善」なる部分とそうでない「不善」なる部分があるが、最終的には全体が「善」なる部分となる。つまり「不善」なること、つまり余計なことをしさえしなければ、全ては「善」となるのである。


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