宋常星『太上道徳経講義』(28ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(28ー4)

その「栄(ほまれ)」を知って、その「辱(はじ)」を守るのは「天下の谷」である。「天下の谷」であれば、常なる徳は十全となり、また「撲」へと帰ることになる。


「栄」「辱」の一方に執することがない。たとえば草木の茂るのが「栄」であり、草木の枯れて行くのが「辱」である。また富貴であるのは「栄」で、貧賤であるのが「辱」である。ただこれらに限ることなく、およそあらゆる物で(大道の)「理」のままであれば「栄」であり、そうでなければ「辱」ということになる。ただ「栄」は人の好むところであって、「辱」は人の嫌うものである。そのように好悪は違っているのであるが、もし、その「理」を得ることができたならば、「辱」の中に「栄」を見出すことができるが、もし「理」を得ていなければ、「栄」は「辱」と等しいものとなってしまう。そうであるから聖人は「理」を尊ぶのであり、「栄」と「辱」そのものを比べることはない。もし「栄」と「辱」の理を知ったならば、それらは自分の外で起こるものであり、本来の自己である「性」に発する自分自分のことではないことが分かる。そうであるからどちらを取って、どちらを捨てようと思う心が生じることもないし、どちらかを好み嫌うこともない。生死も富貴もその心を動かすに足ることはなく、名誉や利得、金銭欲も、その気持ちを乱すに充分ではない。もし天下が栄えれば、栄えていると思うだけである。そうであるからその繁栄を保つことが可能なのである。世の中が恥ずべき状態(辱)となれば、その「辱」を守っている。そうであるから天下は「辱」に陥ることはないのである。こうしたことを「その『栄』を知って、その『辱』を守る」としている。よく「栄」を知って、「辱」を守ることを考えてみると、「知」るとは人々の好むところを「知」るわけで、「守」るのは人々の嫌うところを「守」るのであるが、聖人はそれを嫌うことはないのである。好むことも、嫌うこともない。虚心をして世の中に対する。つまり「虚」と「谷」とは同じなのであって、「虚なる谷の神」となれば物事に適切に応じることができる。そうした聖人の心はあらゆるものを受け入れるが、それにとらわれることはなく、またもし「栄」や「辱」に出会ったとしても、そうしたことに心がとらわれることはない。そうであるから「天下の谷」となるのである。谷神は常に円満であり、それは聖人の徳に等しい。谷神が常に円満であるとは、「虚」であるからである。聖人の徳が欠けたとことがないのも、それは「理」のよっているからである。聖人の徳が充分であれば、天下の徳も欠けるところがなくなる。これは常にそうであって、聖人の「徳」が全きものであれば、天下の「徳」も完全たり得る。天下の「徳」が完全であれば、天下は「一体」であり、あらゆる人は「徳」において一体となる「一徳」が生まれる。これが「『天下の谷』であるのは、常なる徳が十全となり」ということである。天下に生じている事業についてよく考えてみると、すべては個々人が起こしたものである。人は自己を卑下して、謙虚の徳を養うことができる。そうであればあらゆる事において「栄」えを得ることができる。常の徳が既に充分であれば、「栄」に執することはないし、「辱」にとらわれることもない。好悪の思いを持つこともない。これを「道の実践されている天下」というのであり、そうなれば期せずして「撲」に帰することになる。つまり聖人の心は、天下の心と等しいのであり、天下の心は聖人の心と変わることはない。心が同じであれば理も等しいのであり、天の理が聖人の理と同じであれば徳も同様であろう。大道は渾然としており天下もそうである。そうであるならそれは「撲」ということになろう。聖人の徳はそうであって、それに尽きるのである。


〈奥義伝開〉ここでは「栄辱」が挙げられている。そして老子は自分は「辱」を守るものであるという。これは第八章で「上善」を説いた時に、それを「水」に例えて「衆人の悪(にく)むところにいる」としていることと同じである。またこの「水」のイメージは「天下の谷」に通じる。「渓」も「谷」も共に「たに」であるが「渓」にはさんずいがあるように水が集まるところであり、「谷」は窪んでいるところというイメージがある。窪んでいるところにはいろいろなものを入れることができる。第十一章には部屋は何もない空間があるからこそ役に立つとある。「天下の谷」は窪地であるからこそあらゆるものを容れることができて役に立つといえよう。「辱」は人の悪(にく)むところであろうが、「栄辱」がたんに社会通年によるものに過ぎないことに気づけば、そうしたものに左右されることもなくなる。良いとされる学校を出て、良いとされる職に就くことが本当に自分自身にとっての幸福であるとは限らない。「撲」とは生まれたままの木のことであり、これは本当の自分のことをいっている。こうしたことに気づけば、あえて他人と競って「栄」を求める必要はなくなる。


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