宋常星『太上道徳経講義』(27ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(27ー7)

そうであるから人は常に「善」であれば(常善)、人を救うことができるのであって、救えない人はない。常に「善」であれば物を救えるので、救えない物もない。こうしたことを「襲明」という。

これまでは五つの「善」の奥義が述べられて来た。それは五つではあるが、聖人は常にそれらを「一」なる道としている。それはまた人にあっては離れることのない「善」であり、生まれながらに有してる「徳」でもある。あるいは物質にあっては「当然の理」ということになろう。聖人は離れることのない「善」をして人を救い、物を救うのである。そこにはきまった教えとしての「徳」があるわけではなく、その時その時の適切な「徳」をして人を救うのである。つまり「当然の理」をして物を救うわけである。君臣、父子、夫婦の間を正しくし(三綱)、仁、義、礼、智、信の五常をして天の秩序を明らかにしする。人々に欲にとらわれないことを教えて、天の理に戻らしめるならば、欲望にとらわれるようなこともなくなる。これがつまり離れることのない「善」が人を救うということなのである。変化の理により陰陽は働き、調和によって気は秩序を得る。そうなれば天地の災いは転じられて害の生まれることもない。寒暑の時期を違えて不作となることもない。そうなって万物は始めてそれぞれのあるべき姿となることができるのであり、それぞれの生を全うできるのである。害虫の被害にあったり、作物が途中で枯れてしまうこともない。これが何時も働いている「善」をして物を救うということである。そうであるからこれに漏れる物はないのである。聖人はまたよく「善」をして人を救う。また天下、後世に「善」を受け継がせる(襲明)。有無を極めて「善」をして救いをなす。聖人には「善」によって救われない人はなく、「善」によって救われない物もない。よくこれまでに述べられたような五つの「善」を行い、人々の生をつなぎ、物のあるを継続させる。先の聖人が「善」による救いは、必ず後の聖人もそれを受け継ぐし、先の聖人の「善」の継続(襲明)は、必ず後の聖人もそれを受け継ぐものである。「善」は明らかに受け「襲(つ)」がれるものであり、「善」による救いを行うものでもある。どんな時代にあっても、あらゆるものを救うことが可能で、そは明らかに受け「襲」ぐということでもある。「襲」とは途切れなく継続されるということであり、これを聖人の心において考えてみるのに、空間においても時間においても、それらが渾然一体となって「至善の地」のままに受け襲がれる、ということなのである。しかし人々は日常的に「善」が働いているのを知ることはない。世間にある「有為の善」は、どうしてそれを途切れなく行う(襲明)ことができるであろうか。そうであるから「そうであるから人は常に『善』であれば人を救うことができるのであって、救えない人はない。常に『善』であれば物を救えるので、救えない物もない。こうしたことを『襲明』という」とあるわけである。


〈奥義伝開〉ここでは「善」を実践すれば人や物を救うことができる、としている。「救う」とは本来の自然の流れに戻すということである。植物でも動物でも不自然な環境に置くようなことをしないようにする。物も適切に使って万物の生成の働きを阻害しないようにする。それは「善」が「自然」そのものの普遍的な存在であるからに他ならない。ここで老子は、おそらくは老子の時代に日常的に使われていたであろう「襲明」の語をして「常善」を説明する。おそらく「襲明」は「明らかに襲(よ)る」で、「よく分かっていることによって行動すべき」というような意味であったと思われる。それを老子は「よく分かる」とは道を悟ることであると考えた。そして「襲」は踏襲するというように解して時間的な普遍性を示すものとする。これが「常善」の「常」に対応して共に時間的な「善」の普遍性をいうものとされる。


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