宋常星『太上道徳経講義』(27ー10)

 宋常星『太上道徳経講義』(27ー10)

その師を尊ぶことなく、その資(たすけ)を重視することもない。ここに大いなる迷いを知る。これが「要妙」といわれることである。

人はよくその師を貴ぶものである。その資(たすけ)を重視するものである。そこには「襲明」の深い意味が表されている。もし五つの「善」を完全に行うことができないのであれば、それは人の行うべきものとすることはできない。人の師とはなり得ない。これが「師を尊ぶことなく」ということである。不「善」の行いとは、それをして我が行いを諫めるものとなるのであり、物事に対して慎重にならしめるものである。そうであるからつまりは自分の資となるわけである。もし、それで戒めとするに足りないのであれば、どうして自分の行為が相手に不適切であったかどうかを知ることができるであろうか。そのように不「善」なる行為を使わないと自分で資を棄てることになる。そうしたことは本当に無知な人のやることである。今、物事を知っている人が、その師を尊ぶこともなく、その資を重視することもなければ、何を知っているといえようか。それは大いに迷っているといえないであろうか。もし(「善」への悟りを受け継ぐ)「襲明」が自分において明らかであったならば、また人においても(「善」への悟りが)明らかであったならば、この二つの「明」は共につながり(襲)、このことの深い「善」への教えを理解することになるであろう。深い教えとは「善」は無窮であるということである。また至善(善悪の善ではない)ということでもある。こうした奥深い教えのことを「要妙」という。この章では「襲明」の教えが述べられているが、およそ有為の行為は、すべて「善」とすることはできない。そのため既に述べられた五つの「善」は無為によって行われており、そうであるから人や物を救うことができるのであり、師となり、資ともなることが可能なのである。あらゆるところで「善」なることが守られている。人はそれを知ることができるであろう。


〈奥義伝開〉最後はこれも老子の時代の常用語と思われる「要妙」が「善」の実践をいう語であるとされる。「要妙」とは「妙を要(もと)む」であり、「妙」は「巧妙」といった意味である。おそらく「要妙」は「(行動は)巧妙でなければならない」といった教えであったのであろう。何事をするにも、高度な技術や方法があればそれを求めて使うべきというわけである。しかし世間で巧妙であると思われていることは、実は自然である状態を見失わせる「迷」であることを知らなければならない。しかし、その「迷」は大いなる迷(大迷)でもある。つまり、そこには反面教師としての「善」を見出すことができるからである。つまり不要な利便性というものが往々にしてあるということである。


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