宋常星『太上道徳経講義』(27ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(27ー5)

「善」をして門を閉じれば、鍵を掛けなくても開けられることはない。

天地の間にある「衆妙の門」はそれが閉じられても、人は知ることができない。それが開かれても誰も分からない。そうしたところに(痕跡を残さない)「造化」の働きの奥深さがあるのであり、動静の根本(である「善」の働き)もそこにある。「衆妙の門」が閉じれるのは「門」によってではない。それが開かれるのも戸によるのではない。至聖の神人でなければ「衆妙の門」を出入りすることなどできるものではない。門の「鍵」は「関鍵」による。閂(かんぬき)を横にして門を閉じたのが「関」であり、縦にしたのが「鍵」とされる。こうして門が閉じられることは誰でも知っていようが、「善」をして閉じるということは知らないであろう。鍵を用いないでも門を閉じることができるのは「進退、消長の道」を知っているからであり、「利害、成敗の機」を悟るっているからであって、そこにこそその秘密があるのである。これは鬼神でも知ることはないことである。「閉」じるということにおける「道」とは「閉じられることのない門」にある。つまりそこには何らの開閉の区別もなく、内も外もないのである。そうしたところに戸を求めても得ることはできない。そうした開閉や内外の無いところにどうやって戸を開く方法が存しているであろうか。そうであるから「『善』をして閉じれば、鍵を掛けなくても開けられることはない」とあるのである。修行者は常によく心を動揺させないで居られるであろうか。心が乱れないままに居られるであろうか。真を守り根本を固める。性(本来の自分の心)を養って何かを意図的に行おうとはしない。主人と客の区別はなく自在であり、七情(喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲)の働きは一日中、乱れることもない。六欲(異性への欲望)の魔もそれが生じようとして、ついにはその機会を得ることがない。そうであるから我の心の門に、どうしてあえて「鍵」を掛ける必要があろうかということになる。


〈奥義伝開〉ここでは「善」の実践においてやり過ぎは善くないことが示されている。誰も開けようとしない状態であれば、あえて鍵を掛ける必要はない。しかし、人はそうした場合でもあえて鍵を掛けようとする。そしてそうした不自然な行為はかえって自らを制限してしまうことになる。武術でも余りに防御を考えすぎると、攻撃ができなくなってしまう。老子は基本的には人の行動は過度になりやすいとして、なるべく少ない行動をとることを教えている。


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