道徳武芸研究 実戦武術と競技試合(2)

 道徳武芸研究 実戦武術と競技試合(2)

強い「国民」とはつまりは強い「兵士」に象徴されるのであるが、それを育成する上で競技試合の果たす役割は大きいということができるであろう。つまり「国民」を育てるには「価値観の統一」「意識の統一」が前提となるのである。一つの基準によって争われなければ順位を決めるトーナメントを実施することはできない。個人的な技の探求としての試合は、あくまでその主体が「自分」「個人」にある。しかし競技試合では判定はルールと審判によってなされるのであり、「自分」が主体となることはない。「国民」という国家という幻想のベールの中の収奪者に都合よく仕えさせるための「道具=国民」を育成するにはその価値基準はあくまで与えられるものでなければならないのである。戦争をする、しないを個々人がかってに決められては国家の上層に居る収奪者にとってははなはだ都合が悪いことになろう。そうであるからかつての武術家は「国家」において常に危険視される存在でもあったわけで、武器の保持や武術の練習が禁止されることも往々にしてあった。


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