道徳巫覡研究 「武」と「舞」の身体文化(1)

 道徳巫覡研究 「武」と「舞」の身体文化(1)

「武」は「舞」であるとしたのは、八光流の奥山龍龍が初めではないかと思う。これを受けて本部御殿手の上原清吉が「武」と「舞」との関係を「奥伝」として体系的に伝えるようになる。本来、琉球では芸能は武士の修めるべきこととされていた。十七世紀に羽根地朝秀が王府の改革を行い能吏を起用することを目指したが、その時にも「算術」や「馬術」に並んで「謡」や「唐楽」などが武士の修めるべきこととして挙げられている。琉球王府において芸能は外交接待の場で役に立つものであった。ただ日本では江戸時代までは「武」とは「弓馬の道」であり、弓術や馬術がその中心であった。そのため「武」がすなわち「舞」であるとする発想そのものが生まれる土壌がなかったのである。確かに柳生宗矩などは能をひじょうに好んだとされる。また能や謡は多くの武士の間で嗜まれたのも事実ではあるが、それが武術と関係付けられるということはなかったのである。ちなみに囲碁も武士の教養のひとつとして人気であり、兵略を考える助けとなるなどと言われることもあったが、囲碁そのものが兵法と等しく見なされることはなかった。


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