宋常星『太上道徳経講義』(28ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(28ー5)

「撲」が分けられれば「器」となる。聖人はそれを使うと国家のリーダーとなる。つまり「大いなる制度は分けることはできない」ということである。


先に挙げられていた「雌雄」「黒白」「栄辱」は大道の「機」と「用」をであり、それはあらゆるところに現れている。また潜んでいる。つまりあらゆるところに「雌雄」「黒白」「栄辱」があるのであり、これが世に用いられるのは「『撲』が分けられれば『器』となる」のと同じである。「撲」とは混沌たるこの世の本源のことである。「撲」が「撲」のままである時には、大きくても小さくても、曲がっていても真っ直ぐであっても、長くても短くても、四角でも円でも、どこにでもそれは存している。しかし「撲」が分けられてしまうと(用途を持つ形である)「器」となってしまい、それが大きければ、小さくあることはできないし、それが小さければ、大きくあることはできない。それが曲がっていれば、真っ直ぐである事はできないし、それが真っ直ぐであれば曲げることはできない。それが長ければ短くすることはできないし、それが短ければ長くすることはできない。それが円であれば四角とすることはできないし、四角であれば円にするとすることはできない。またそれが分かれる前の「撲」に戻ろうとしてもけっして戻ることはできない。大道が廃れて仁義が現れてくるようなもので、ここでは「撲」がそのままであることが、大道を保つことであることを言っている。そうすることで天下を純朴、素朴な本来の状態へと返すことが可能となるとする深い意味がここでは込められている。そうであるから「『撲』が分けられれば『器』となる」とあるのである。およそ天下にあって有為でなされるものは「器」でないものはない。先に老子が述べていた「雌雄」「黒白「栄辱」も、これらは天下の「用」である。つまり「器」なのである。しかし、もし聖人がそれを用いたならばそれは「器」とはならない。そうであるからそれを「国家のリーダー」としている。「国家のリーダー」とは公にあって私を持たない。これは国に仕える者であり、あらゆることにおいて中心となるのがリーダーであるから「国家のリーダー」とは天下において「至公」たる公的な存在なのである。天下にこうした存在があれば、天下はよく治まる。聖人は大道をして「国家のリーダー」のベースとする。「雌雄」「黒白」「栄辱」「知守」はその現実的な現れである。そうであるから「聖人はそれを使うと国家のリーダーとなる」ことが可能となるのである。(大道と一体である)「大いなる制度」が実践される天下において、聖人はこうした国家に仕えるのであり、そのリーダーとなって天下に臨むのである。つまり天下は自然が保たれており、常なる徳がそのままに存していて、世の人は「嬰児」となって大道のままに生きている。そのように自然と常なる徳とが一体となっていると、また無極へと帰ることができて、天下の自然の常なる徳は欠けることがなく、大いなる「撲」へと帰するのである。「撲」に帰したならば、これは道へと帰したことになる。道に帰したならば、それは天下が道と一つになったことになる。道と一つになったならば、「雌雄」のこだわりも無くなり、「黒白」は等しく、「栄辱」に違いを見ることは無い。こうしたことが大いなる「撲」の道なのであり、それは努力することなく自ずからそうなるものである。そうであるから天下における「大いなる制度」は道と一体なのであり、道を片時も離れることはない。つまり「分けることはできない」のである。分けるとは離れるということである。本体を傷つけるということである。もし道から離れたならば、それはたとえ小さなことであっても、大きな障害を生ずることになる。取るに足りないようなことであっても、本質的なものを失うことになる。現実的な部分に少しの乱れでもあれば、有為の私に執着が生まれる。そうであるから「大いなる制度は分けることはできない」とされている。聖人はこの世に現れて無為を行い、大道から離れることはない。自分だけの思いで行動することがないのは包丁使いの名人が牛の肉の筋を見て包丁を使うので刃が切っても切っても刃が鈍くならないのと同じである。どのように使ってもあるがままで特段のことはない。ただそれが大道の実践なのである。


〈奥義伝開〉「撲」は大道であり、理である。「器」は実用的な形に特化されたものである。自然そのままの木である「撲」はそのままでは使えない。柱なら柱に適するように加工されなければならないし、皿なら皿として使える形でなければならない。しかし一旦、柱の形にしてしまうと、それは皿として使うことはできない。「大いなる制度は分けることはできない」というのは、おそらくは当時の格言であったのであろう。大原則というものは例外を含めないということである。それぞれの例外を考慮し過ぎると大原則というものは決められない。多くの人に適用される大原則と個々の事例により修正的に用いられる例外規定のレベルの違いを教えた格言であったと思われるが、老子はこれを「大いなる制度」を大道のこととして、大道はそれを部分として見たのでは本質が分からないとする。ここの教えでは反対の立場をも考慮しなければ「全体」として、その本質は見えて来ないということである。つまり批判を許容しないとものは本質を見ることはできないのである。つまり否定的な意見が許容されない事例には充分に注意をしなければならない。肯定、否定の意見の表明が充分になされるところにのみ真実はあるのである。


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