宋常星『太上道徳経講義』(29ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(29ー1)

自然の道は、これを守ることは重要であるし、これを行うことで利を得ることができる。また、これを守るとは天の徳を自分が有するということでもある。そうなると無欲、無為であるので失敗をする心配もない。そうであるから道を守ることは極めて重要なのである。「自然の道」を行うとは、つまり道を実践するということである。いろいろと思いをめぐらすこともなく道を実践すれば利を得られないことなどない。老子は「神」と「気」をいう。これはつまり「天地」が「自然」であるので、形を持つものと気とが(神を介して)感応するということである。こうした不可思議なことはあらゆる物事において存している。「日月」は「自然」であるので、陰陽の二気によって生を養い、神光が輝いている。聖なる帝と優れた王は、自然をして道として実践していた。天の道をして天下を治めていたのである。文武の重臣も自然をして道として国政を行い国を安定させていた。「自然の道」はつまり、天下の「神器」なのである。修行者ははたしてよく天然自然のままで居ることができているであろうか。自分ひとりで自然を楽しみ、自然の妙を得ているであろうか。こうした境地は鬼神も知ることはできないし、世俗の人は見ることもない。自然は近くは心身や(本来の自己の心と体の働きである)性命にあり、遠くは天地、万物として現れているのであるって、あらゆるとことで自然でないところはない。この章では上にある者が有為をして事を行うことを深く戒めている。「神器」を妄りに使えば、つまりは失敗をして多くの害を生むこととなるのである。


〈奥義伝開〉老子は「天下」は「神器」であるとする。本来「器」とは何らかの有用性を持つもので、それは自然のそのままではない有為の存在である。「天下」も人間社会が作り出した統治形態であるからこれは有為のものであるのであるが、老子はそうした統治形態を限りなく自然に近づけようとして「天下」は「神器」であるとする考え方を出している。「天下」は「神器」であり、「自然」に限りなく近いものであるから、それは無為をして統治されなければならない。こうした無為の統治は太古の聖なる王の時代にはあったが現在は失われてしまったと老子はしている。つまり現実の統治者には何ら神聖なる権威などは無いのであり、それをあたかも有するように見せているだけであると教えている。「神器」といって古代の剣や鏡を何か神聖なものとして扱うのはパワーストーンの迷信と同じ愚かなことである。


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